0点を高校1年の1学期の中間試験の数学でとったことがあるんだぜい〇 o 。.~~~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
100点満点で4問しか出題されなくて、0点が続出し、学年全体の平均点が赤点以下だったという(^_^;)

【読んだ本】

新田次郎『新田次郎全集19 富士に死す・算士秘伝』(新潮社,1976)
新田次郎『梅雨将軍信長』(新潮文庫,1979→2010改版)

全集版で読み始めるも途中から活字の大きい文庫版に変え、短篇「二十一万石の数学者」を読了(^^)

    ・・・/「十六歳とは見えないな」/将軍吉宗が新久留米藩主有馬頼徸[よりゆき]を
    謁見した時言った。図体が十六歳には見えないほど大柄だという意味ではなく、顔つきが、
    十六歳には見えないといったつもりだった。ひねた顔ではなく、才たけた容貌だった。/
    「はい、満十五歳と四ヵ月半でございます」/頼徸の答えに吉宗はすぐ次の質問を
    発した。/「なにが好きか」/それには多くの意味があった。食べ物の嗜好もある。
    学問の種類もある、武道の別にもなるし、趣味を訊かれたようにも取れた。/
    「数理を学ぶことでございます」/吉宗はその意外な回答に驚いた。/
    「数理を学ぶ理由は……」/吉宗の言葉はやや性急だった。/「数理は深淵であり、
    矛盾がないからでございます」/吉宗は大きく一つうなずいた。ある感動が
    四十六歳の吉宗の顔に見えていた。吉宗は学問の好きな将軍だった。特に暦学に
    興味を持っていた彼は、数学についての一般的常識も持っていた。数理が深淵であり、
    矛盾がないという答え方には共感をおぼえたし、それ以上に吉宗を動かしたのは、
    将軍の前に坐って、堂々と、それを言った、十六歳の少年藩主の態度だった。/
    (雑魚の中にも鯛はいる)/吉宗は心の中でつぶやいた。/・・・

「和算の教科書を出版して、日本の数学を、ニュートンの微積分学のレベルまで高揚させた数学大名
有馬頼徸」(新田次郎『小説に書けなかった自伝』[新潮文庫,2012])を描き、「時代科学小説」と
自ら名付けた作品の一つ( ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-26 )(^^)
知らない人物・主題だったので大変興味深く、愉しめた(⌒~⌒) ただ、『小説に書けなかった自伝』
(新潮文庫,2012)に、

    ・・・これは歴史の中に埋れている、技術者や学者を小説に書くことによって、
    現在の人々に理解して貰いたいためであった。だが結果はよくなかった。編集者にも
    喜ばれなかったし、私が小説の中で提出した数学の問題を現代数学で解いて来た読者が
    一人だけあった以外に読者の反響はなかった。/この方向を開拓してみたいと思っていた
    私は挫折感と共に、この傾向の小説を書くことをあきらめた。/・・・

とあったのも、本作品に関しては得心(^_^;) 年表のような伝記的記述に加え、小説化が中途半端で、
イマイチ盛り上がりを欠くし、また主役を食いかねないほど吉宗の存在感があり過ぎるかと(@_@;)

なお、森毅の『数学の歴史』(講談社学術文庫,1988)や『異説数学者列伝』(蒼樹書房,1973)には
出てこない本作品の主人公だが、小倉金之助『日本の数学』(岩波新書,1940)にはモチ登場(⌒~⌒)

    ・・・/さて久留島[義太]、松永[良弼]のつぎに、山路主住(宝永元年 1704─
    安永元年 1772)の時代になりますと、関孝和以来の研究や文献が、いっそうよく
    整理を加えられまして、関流の免許状の形式も、完成するようになります。/
    ここに至りまして、関流というものが、形式的にも立派な、大きい学派として
    完成することになりました。これから後は、数学の皆伝をすることが、いっそう
    秘密主義になりますし、関流の開祖たる関孝和は、その人物も、その業績も、
    正に伝説化されるのであります。/かような状態は、ひとり関流ばかりに
    限ったことではありません。和算のどの流派も、ちょうど商売人たちの同業組合
    すなわちギルドと、同様の性質のものでした。その教授が秘伝的でありましたので、
    新しい理論や方法は、容易に公開されなかった。平凡な専門家の間などには、
    新知識の伝達もなかなかにむずかしいし、また、たとえ伝わるにしましても、
    それはたいへんに遅れるようにならざるを得なかったのでした。/現に彼等が学ぶべき
    点鼠[=「一種の筆算による代数」]の教科書さえも、まだ一冊も刊行されていなかった。
    点鼠の秘密が公開され、関流数学の内容が、ごく大体ながらも、ある程度まで
    公にされましたのは、決して普通の和算家の力によったものではありません。皮肉にも、
    それは豪放磊落な藩主であって、しかも自ら有力な和算家でもあった、
    有馬頼徸(正徳四年 1714─天明三年 1783)の功に帰すべきものでありましょう。
    有馬の著「捨璣算法」(明和六年 1769)こそ、著者が述べているように、
    点鼠・・・を公開した最初の刊行書でした(第40図)。/・・・

本作品にも山路主住は有馬の師として登場してて、有馬は「関流の見題免許、伏題免許を得」た由(^^)