白紙答案を出すぐらいなら校歌でも書いとけば単位もらえるかもと教わった世代ゆえスルー推奨m(__)m
と2年前の枕に書いてたが、そーゆー読む価値が無い内容の日もあったのさ( ̄^ ̄)エヘンヾ(-_-;)イバルコトカ?
校歌を書けば単位がもらえるとの噂があった教授は異常なまでの愛校心の持ち主だからと思ってた(..)
階段の上から答案用紙をばらまくと記述量が多い答案ほど重さで下の方に落ちるため下の方の答案から
優をつけていくとの噂もあったし、校歌を書けば白紙答案よりは下の方に落ちるということかも(゚ロ゚;)
今日も朝10時には駅前が25度に達していて、外出はTシャツ1枚で充分と思えるほどの暑さだった(+_+)

【読んだ本】

竹鼻績(全訳注)『今鏡(上)』(講談社学術文庫,1984)所蔵本

〈罪なくして配所の月を眺めたい〉として有名な源顕基の逸話に関して、Wikipediaにデタラメな記述が
あると昨日指摘(´・_・`) その執筆者を、風雅な人として知られてた源顕基を書くには相応しくない輩と
断じた理由として、古典に通じてないという教養(体系化された知識の総体)の問題を挙げたが、更に、
情趣を解せないというセンスの問題もあるかと(^_^;)

    『十訓抄』には、後一条天皇が崩御した際に顕基は、「忠臣二君に仕えず」として
    出家してしまったという逸話がある。

このwikiの「源顕基」の項の記述は、『十訓抄』の六ノ十一話に拠ったようだが(wikiには何話なのか
典拠が示されてない)、浅見和彦(校注・訳)『新編 日本古典文学全集51 十訓抄』(小学館,1997)に
よる現代語訳を引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    中納言源顕基卿は後一条天皇にたいそうお目をかけられていた寵臣であった。
    若い時より官位についてはまったく不満とするようなところはなかった。
    帝が先にお亡くなりになった時、「忠臣は二人の君には仕えない」と言って、
    比叡山の横川の首楞厳院にのぼり、髪を下ろしてしまった。帝が亡くなられた夜、
    火を灯していなかったので、「どうしたのだ」とたずねたところ、「主殿司
    [宮中の清掃・燭火を担当]は新しい帝[後朱雀天皇]の行幸にたずさわっており、
    こちらには参上しておりません」という返事を聞いて、出家しようという気持ちは
    強くなったといわれている。/・・・

wiki執筆者は「忠臣は二君に仕えず」という部分のみチョイスして紹介してるわけだが、そのセンスは
風雅な人とされる源顕基の人となりを充分に伝えてて評価に値すると言えるのだろうかC= (-。- ) フゥー

『今鏡』も出家に至った経緯を紹介しているので本書の現代語訳から引く○ o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    [彰子との贈答歌の逸話の後]その顕基の中納言は、後一条院の御信任の厚かった方で
    いらっしゃったが、後一条院崩御の喪に御所においでになってみると、殿中に御燈火も
    ともし申しあげないありさまでしたので、/「どうしたのか」と尋ねなさったところ、
    「女官たちが新帝の所に参上して、燈火をともす人もいません」など(というのを)
    お聞きになさるにつけ、まことに悲しくて、帝が崩御なさって六日目だというのに、
    髪をおろして、(大原の)山深くひきこもりなさってしまいました。御年は三十七歳で
    いらっしゃいました。このことを聞いた人は涙を流さないということはありませんでした。
    花山僧正[僧正遍昭]が、仁明天皇の喪中に髪をおろしなさったというのにも劣らない
    お志でありましょう。/・・・

「殿中」(原文は「宮のうち」)に〈宮中。『続本朝往生伝』には、「梓宮」すなわち、棺[ひつぎ]
に燈火を供えてなかったとある。〉という〈語釈〉があり、そちらの方がヨリ切なく感じられる(;_;)

『今鏡』に「忠臣は二君に仕えず」の逸話が出ていないように、灯火の逸話の方がいいと思う( ̄^ ̄)