「世の中に絶えてバカチンなかりせば みどりんブログはのどけからまし」(在原ニャリ平)ヾ(`◇´)ノ
ブログをされてる目的は何かしら(@_@;) ①記録・備忘録?②情報発信?③他人との交流?④その他?

【読んだ本】

小川和佑『桜の文学史』(朝日文庫,1991)所蔵本
小川和佑『桜の文学史』(文春新書,2004)

Amazonレヴューには「日本文学を通して日本人の真の桜観に迫った不動の名著」と題して星5つも(゚ロ゚;)
両書のレヴューが共通してるのは両書を同一とAmazonが判断したためだろうが、たしかに文春新書版は
若干の加筆&訂正が施されているだけで、両書はほぼ同一である(´・_・`) だが、文春新書版を見ても、
どこにも朝日文庫版の存在に触れている記述が見当たらない(@_@;) 黒歴史だから、と思われる(^_^;)

朝日文庫版の「2 古代のさくら=飛鳥・奈良時代」という章の「平城京のさくら」なる見出しの節には
次の件(同33~34頁)があった( ̄◇ ̄;)

    人麻呂のさくらの歌は明らかにヤマザクラの歌である。
    ずっと後世のことだが、さくらを愛した王朝の女流歌人伊勢大輔が『後十五番歌合』
    (一〇〇九以前)の中で、

     いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな

    と詠んだ奈良の八重桜は、光明皇后(七〇一~七六〇)がいたく愛したさくらだったという
    伝説の里桜である。現代のナラヤエザクラと呼ばれる里桜は自生種のカスミザクラ系の園芸
    品種で江戸時代前期の花譜『花壇綱目』(水野元勝編一六八一)に初めてその名が
    記載されているのだが、このさくらが伊勢の詠んだ奈良の八重桜と同じものであるかどうかは
    詳らかではない。伊勢の歌の八重桜は、ある種のさくらの突然変異による八重咲き
    だったのかも知れない。
        
第一に、「伊勢大輔が『後十五番歌合』・・・の中で・・・詠んだ」という書き方は、変だろう(-"-)
この歌は、奈良の八重桜が彰子(藤原道長の娘で一条天皇の中宮)に献上された際に、何か詠むように
命じられ即興で詠まれたものであることは、伊勢大輔の家集である『伊勢大輔集』の詞書に記されてて、
その作詠状況は同歌が入った勅撰集『詞花和歌集』や藤原定家『百人一首』の各注釈書等でも必ず紹介
されている有名な話であるし、他方で、『後十五番歌合』とは、30人の優れた歌人の歌を各1首選んで
歌合の如く2首ずつ組み合わせた秀歌選(アンソロジー)だ(-"-) 本書の書き方だと、まるで『後十五番
歌合』という名の歌合が実際に開かれて、伊勢大輔も出席して同歌を詠んだかと誤解されかねない(-"-)
「『後十五番歌合』にも選ばれた歌で、王朝の女流歌人伊勢大輔が・・・と詠んだ」とすべきだろ(-"-)

第二に、「伊勢の詠んだ奈良の八重桜」や「伊勢の歌の八重桜」の「伊勢」とは、文脈的に「伊勢大輔」
を指すのだろうが、宇多天皇の女御温子(藤原基経の娘)に仕えた「伊勢」という、これまた超有名な
「王朝の女流歌人」がいるので(藤原定家『百人一首』にも入ってる)、この種のミスは恥かしい(-"-)

さて、「伊勢大輔」を「伊勢」と誤記しているのは単なる不注意と最初は思ったのだが、朝日文庫版の
「3 王朝絵巻のさくら=平安時代Ⅰ」という章の「憧れと郷愁の花」なる見出しの節の次の件(同42頁)
に至り、小川和佑は本気で「伊勢大輔」と「伊勢」を同一人物と誤解していたことが判明ヒィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

    ──というのは、これはまあ、妄説に近いのだが、やがて平安京の栄華の持続の過程で、
    桜のモチーフは平城京の昔を知らぬ新しい世代の台頭とともにさくらは平安京の花、
    そして王朝和歌そのものの精神となった。宇多帝の中宮温子の女官だった伊勢の
    「奈良の都の八重桜」は深層意識の底に沈んでしまった平城京への郷愁が、不意に
    意識の裂け目からこぼれた歌だったのかも──。それゆえこれが名歌として
    『後十五番歌合』に遺ったともいえようか。

伊勢の歌は「散り散らず聞かまほしきを古里の花見て帰る人も逢はなむ」が『後十五番歌合』ではなく
(対象とした歌人の属する時代が違うから当たり前なのだが)、『前十五番歌合』に既に選出済み(^^)

更に「4 薄明に咲く=平安時代Ⅱ」の「さくらと吉野信仰」に次の記述(朝日文庫版62頁)が(@_@;)

    『古今』時代の女流歌人伊勢が八重桜を詠んだように『新古今和歌集』(一二〇五)でも
    その巻第二・春歌下には式子内親王の八重桜の歌がある。

犬養廉&後藤祥子&平野由紀子(校注)『新日本古典文学大系28 平安私家集』(岩波書店,1994)所収
の伊勢の家集『伊勢集』を見た限りでは、「八重桜を詠んだ」歌は見当たらず、やはりコレも伊勢大輔
と混同したものと思われる(-"-)

では、文春新書版で「第二章 古代に咲く=飛鳥・奈良時代」の「平城京のさくら」という見出しの節
を確認すると、次のように記述(同40~41頁)が変わっていた(@_@;)

    人麻呂のさくらの歌は明らかにヤマザクラの歌である。
    ずっと後世のことだが、さくらを愛した王朝の女流歌人伊勢大輔が『後十五番歌合』
    (一〇〇九以前)の中で、

     いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな

    と詠んだ奈良の八重桜は、平安朝の十世紀、一条帝の中宮上東門院彰子がいたく愛した
    さくらだったという中世の仏教説話『沙石集』(一二八三)の挿話がある。ナラヤエザクラは
    江戸時代前期の花譜『花壇綱目』(水野元勝編一六八一)に初めてその名が記載されている
    のだが、このさくらが伊勢大輔の詠んだ奈良の八重桜と同じものであるかどうかは
    詳らかではない。伊勢大輔の歌の八重桜は、ある種のさくらの突然変異による八重咲き
    だったのかも知れない。

文春新書版の「第三章 王朝絵巻のさくら=平安時代(前)」の「憧れと郷愁の花」という見出しの節も
次のような記述(同49頁)に訂正されていた(@_@;)

    ──というのは、これはまあ、妄説に近いのだが、やがて、平安京の栄華の持続の過程で、
    桜のモチーフは平城京の昔を知らぬ新しい世代の台頭とともに、平安京の花、
    そして王朝和歌そのものの精神となった。一条帝の中宮上東門院彰子の女官だった伊勢大輔の
    「奈良の都の八重桜」は深層意識の底に沈んでしまった平城京への郷愁が、不意に
    意識の裂け目からこぼれた歌だったのかも──。それゆえこれが名歌として
    『後十五番歌合』に遺ったともいえようか。

文春新書版「第四章 薄明に咲く=平安時代(後)」の「さくらと吉野信仰」の節は次の記述(同74頁)
の通りだが、あくまで伊勢が詠んだ「八重ざくら」の歌が存在するというのだろうか(@_@;)

    『古今』時代の女流歌人伊勢が八重ざくらを詠んだように『新古今和歌集』(一二〇五)でも
    その巻第二・春歌下には式子内親王の八重ざくらの歌がある。

伊勢大輔と伊勢の混同は指摘を受けたか何かして、文春新書版で訂正したのだろうが、だからといって、
この文春新書版が「日本文学を通して日本人の真の桜観に迫った不動の名著」だなんて笑止である(-"-)

例えば、朝日文庫版63~64頁=文春新書版75~76頁(異同は①「春歌」の鍵括弧が無く、②引用歌末尾
に「(巻第一・一」)と巻数・歌番号が付記され、③「いなかったろう」が「いなかった」に)を読み、
吃驚仰天である∑( ̄ロ ̄|||)にゃんですと!?

    『新古今和歌集』の吉野のさくらは、こうした彼らの心情が歌わせたものだ。この歌集の
    巻第一「春歌」上の巻頭歌は、藤原良経(摂政太政大臣)の吉野のさくらから始まっている。

         春立つ心をよみ侍りける

      み吉野は 山もかすみて 白雪の ふりにし里に 春はきにけり

    この鎌倉幕府成立期の摂政太政大臣はもはや官名のみで、現実にはなんの力も持って
    いなかったろう。形骸だけになった王朝の主宰者は、都の南の果ての夢幻界のさくらを
    歌う以外になかった。

勅撰集の「巻頭歌」は〈立春〉を詠んだ歌を置くのが普通で、詞書に「春立つ心」を詠んだとある通り、
この歌は〈吉野は山も霞んで、雪の降った古里にも春がやってきたんだなぁ〉というのが歌の大意だし、
〈立春〉が主題なので〈さくら〉はおろか〈花〉すら詠んでないじゃんヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

上記の引用部分には他にもツッコミどころが幾つかあるけど、時間の無駄だから、論点を絞った(-"-)

小川和佑は認知の歪みか頭がおかしいのか、他にも梅を詠んだ歌を桜を詠んでるとトンデモ解釈したり、
「花」という表現は梅の可能性もあるのに勝手に桜とするなど和歌に関する記述はデタラメだらけ(-"-)

・中宮彰子が最終兵器の伊勢大輔タンに「アレを取れ!」と出撃命令キタ━━━━(゚д゚;)━━━━!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-10

・彰子からの出撃命令を受け、伊勢大輔タン、こっそり女院に侵入した女房たちを見事撃墜v( ̄∇ ̄)ニヤッ

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12

・和歌の割り当てを忘れてたのに気付いた醍醐帝、伊勢タンに御指名キタ━━━━(゚д゚;)━━━━!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-07

・ウダダが譲位した際に伊勢タンが弘徽殿に書きつけた歌とソレに対するウダダの返歌について(⌒~⌒)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-12-07
 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-12-08
 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-12-09