日が暮れるのが遅くなる一方、夜明けは早くなってるんだから、寝不足になるのは当たり前じゃん(゚ロ゚;)
この3月はメインの読書が全く進まなかった(-ω-、) プレイボーイの伝記を読み出したけど挫折したし、
戦争物に手を出そうとしたけど併読する注釈書が無いことに気付き、地図を読めないオタク女の自伝に
再挑戦したけど、どうにも気分が乗ってこない(´ヘ`;) 付箋の在庫とも関係するんだけどね(@_@;)

【読んだ本】

永井路子『絵巻』(角川文庫,2000)所蔵本

横山秀夫『半落ち』(講談社,2002)以来だぞ、夢中になって読んでたのに最終章のデタラメぶりに本を
打ん投げたくなったのは(ノ ̄皿 ̄)ノシラベテカケ!┫:・ 収録作品は「すがめ殿」「静賢法印日記 その
(一)」「寵姫」「静賢法印日記 その(二)」「打とうよ鼓」「静賢法印日記 その(三)」「謀臣」
「静賢法印日記 その(四)」「乳母どの」「静賢法印日記 その(五)」の順で、1965~66年に各誌に
発表された連作短篇小説と書き下ろしの「静賢法印日記」各篇を組み合わせて1966年に単行本化してて、
この「構成」が本書の特徴なり(^_^;) 「・・・ここでは絵巻物のように、ひとつずつの短編を絵画部分
に見立て、それを繋ぐ詞書の部分を、静賢法印[藤原信西の子で実在]の日記[永井路子による創作]
というかたちで綴っていく・・・」という「・・・この試みはほとんど評価されなかった。」そうで、
「私は『絵巻』が一番好きだ」と言われると、「飛びあがりたいほど嬉しくなる。」由、巻末「付記」
にあるが、そのメリットは各短篇のとは異なる見方・解釈を示せる点ぐらいか(^_^;) 「すがめ殿」は
平忠盛(清盛の父)、「寵姫」は丹後局(後白河院の寵姫)、「打とうよ鼓」は平知康(後白河院や
源頼家の側近)、「謀臣」は源通親(後鳥羽院・土御門帝時代の権力者)、「乳母どの」は藤原兼子
(後鳥羽院の乳母で卿二位と呼ばれた実力者)が主役で、永井路子『頼朝の世界』(中公文庫,1982)
所収の人物論、「後鳥羽法皇」(1966年)や「源通親」(1973年)も併読すると深まるね(^^) 「謀臣」
を読むと、「源通親」の冒頭の「源通親は日本史上最大のマキャベリストである。」に改めて納得(^^)

でも、昨日の呉座勇一による歴史小説批判を想起させたのが「乳母どの」で、その冒頭を引く(-ω-、)

    元久三年三月、九条家を襲った突然の不幸は、当の九条家だけでなく、天下に衝撃を
    与えずにはおかない事件だった。/当主良経──現職の摂政・太政大臣が何者かに
    刺されて怪死をとげたのだ。

九条良経が「何者かに刺されて怪死」だと∑( ̄ロ ̄|||)にゃんですと!? 38歳で急死したのは事実も、
子供の頃から病弱で、暗殺されたというのは説話だろ(´ヘ`;) この「乳母どの」とペアの「静賢法印
日記 その(五)」に、「摂政の北の方」が「変に気づいた数名の下人たちに、てきぱきと遺体を寝殿に
運ばせ、堅く口どめをしたあと、はじめて[良経の子]道家どのはじめ邸内の人を起したのだという。」
とあるけど、良経の北の方=正室(一条能保の娘)は、その6年前に亡くなってるの知らんのか(-ω-、)

馬鹿馬鹿しいと思いながらも読み進めて行ったら、次の件に遭遇したヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

    あのとき、立子が和歌に堪能だと聞いて、[後鳥羽]上皇はひどくいやな顔をした。/
    「良経の娘ではさぞかし父そっくりの歌を読[ママ]むのであろう」/
    歌にかけては大変な自信家で、そのころやらせていた新古今和歌集の編纂にも
    一々文句をつけずにはいられなかった上皇は、それなりの一家言をもっていて、
    当時評判のよかった良経の歌を、ひとつも認めようとしなかった。(それで
    今になって良経横死に上皇も一役買ったなどと言われるのだが)だから立子の
    [土御門天皇への]入内は、はじめから無理な話だったのである。

『新古今和歌集』の事実上の撰者の後鳥羽院が「良経の歌を、ひとつも認めようとしなかった」のなら、
九条良経が、『新古今和歌集』への入集歌数が第3位で、歌人の名誉とされる勅撰集の巻頭歌に選ばれ、
「仮名序」まで担当している事実はどう説明するのか(-"-) そもそも『後鳥羽院御口伝』で良経の歌を
褒めてるじゃんヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!! 実は永井路子は『後鳥羽院御口伝』を読んでいないか、
読んでたとしても勘違いしていることには気付いてた(´ヘ`;) 前掲『頼朝の世界』所収の「後鳥羽院
と藤原定家」に「・・・また良経が生得の天才歌人でもあったので、・・・」とあって、西行のことを
後鳥羽院が『後鳥羽院御口伝』の中で「生得の歌人とおぼゆ」と評した有名なフレーズなのに、良経に
使ってたからね(-ω-、) この「後鳥羽院と藤原定家」を改めて読むと、次の件に目が留まった(@_@;)

    歌合に登場しては、よく鬼面人を驚かすような新表現を、あえてやってのけたものだ。

      木のもとは日数ばかりをにほひにて花ものこらぬ春の古里

    「春の古里」というのは、定家独自の表現である。このほか「露さびて」「風ふけて」など、
    従来の歌人が思いも及ばなかった言い方をどんどん使ってみせた。

この件を以前に読んだ時には、永井路子は藤原定家の和歌に詳しいんだなぁ~と感心したけど、今では
この件の種本が鴨長明の『無名抄』の注釈書と見当も付くぞ(^_^;) 鴨長明(久保田淳訳注)『無名抄
現代語訳付き』(角川ソフィア文庫,2013)の「71 近代の歌体」の一部を、その現代語訳で引く(^_^;)

    よく[新古今時代に主流だった藤原定家に代表される新しい歌風で]詠まれる、
    『露さびて』、『風ふけて』、『心の奥』、『あはれの底』、『月の有明』、
    『風の夕暮れ』、『春の古里』など、初めにめずらしく詠んだ時こそ
    おもしろいけれども、二度となれば何ということもない癖のある言葉を
    かろうじて真似しているようである。

『露さびて』『風ふけて』『春の古里』のそれぞれの注釈を見れば、『露さびて』は「用例未詳」も、
『風ふけて』と『春の古里』は定家の歌が用例のトップに挙げられてて、『春の古里』では上記の歌が
引かれているからね(^_^;) だけど、〈「春の古里」というのは、定家独自の表現で・・・従来の歌人が
思いも及ばなかった言い方〉というのは間違ってるね(-"-) 少なくとも、『拾遺和歌集』に入っている
紀貫之の「花もみな散りぬる宿は行[ゆく]春のふる里とこそなりぬべらなれ」が既にあるヾ(`◇´)ノ

最終話「静賢法印日記 その(五)」の最後のところの静賢の口を借りた永井路子の感想に笑った(^_^;)

    静快律師が帰ったあとも、燭を近づけて、新古今の続きを読む。読めば読むほど、
    「定家卿」の歌には心ひかれる。

『新古今和歌集』の藤原定家の歌を正しく理解・鑑賞できてるといいですねぇオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)