両手だけじゃ足りないから靴下を脱がなきゃ(._+ )☆ヾ( ̄ヘ ̄; )だから20人までしか数えられないのか?
ここ数日、暖かいのは有難いけど風が強くて困る(´ヘ`;) MXテレビが映り難くなるし、昨春は強風で
屋根の上のテレビのアンテナを吹き倒されてしまい、その修理で還付金まで吹っ飛んだし((;゚Д゚)ヒィィィ!
予約した漫画が明日の発売日にちゃんと入荷して受け取れると嬉しいなウキウキ♪o(^-^ o )(o ^-^)oワクワク♪

【読んだ本】

目崎徳衛『王朝のみやび』(吉川弘文館歴史文化セレクション,2007)所蔵本

読了(^^)v 今年読んだ本の中で、最終的にもベスト10に入りそうなほど知的興趣に満ち、色々と教わる
ことも多かった本だったよ(〃'∇'〃) 付箋も大量に貼ったことだし、インスパイアされた件をここに
メモる必要はないかな(⌒~⌒) ウダダこと宇多上皇とは水魚の交わりだったにもかかわらず、配所で
回顧して詠作したのは自分を左遷した醍醐天皇の宴のことばかりという「菅原道真の謎」の章のことは
紹介済みだし(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-12-13 )、また平安時代
を律令国家崩壊過程と捉える旧来の歴史観と正岡子規の万葉集マンセー和歌史観との親和性を指摘する
興味深い章も紹介(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-31 )( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

理解できなかった点や疑問点もあったけど、明白な間違いだけ一つ二つ指摘しますかねC= (-。- ) フゥー
目崎徳衛は粗雑でいい加減な研究者(歴史家・文化史家)ゆえ、結構デタラメな記述が多いし(¬。¬ )

先ずは、単なるケアレスミスなんだろうけど、〈「百人一首」と才女たち〉と題した章の次の記述(-"-)

    ・・・「小倉百人一首」は今も多くの人びとに愛され、王朝の「みやび」のエッセンスと
    されているが、いったいこの中に女性の作品はどれだけ入っているのだろう。次の二十首
    である。

んで、列挙しているのは、小野小町の「花の色は」から二条院讃岐の「我が袖は」までの「二十首」で、
持統天皇の「春すぎて」が無いじゃんヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!! 正しくは「二十一首」だよ(-"-)

本書巻末の小原仁(聖心女子大の目崎徳衛の後任?)による「『王朝のみやび』を読む」という一文も

    その一方で百人一首のうち二十首を占める才女たちの歌と解説がある。

と記しており、2人とも大学教員のくせに、人数も数えられないのかよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

なお、「道長の栄華」の章にフェミちゃんが激怒確実な記述が2つあることも一応指摘しておく(@_@;)

次に、本書の最終章「漂泊者の系譜」に、またも西行に関するデタラメな記述があるので指摘する(-"-)

    また、同じく晩年のこと、

      ねがはくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ

    と詠んで、願いの通り数年後の二月十六日に往生を遂げ、友人の[藤原]俊成や
    慈円などに深い感動を与えた。

この歌が西行の「晩年」の作で、その「数年後」に西行は亡くなっただと∑( ̄ロ ̄|||)にゃんですと!?

この有名な歌は、井上宗雄(校注・訳)『新編日本古典文学全集49 中世和歌集』(小学館,2000)収録
の『御裳濯川歌合』の頭注によると、西行の家集である『山家集』『山家心中集』『西行法師家集』に
入っている(^^) 従って、これらの家集の成立年代によって、何歳の頃に詠まれた歌なのか判るわけ(^^)

桑原博史(全訳注)『西行物語』(講談社学術文庫,1981)は以前にも一部引用したけど、次の通り(^^)

    第一に、ここ[『西行物語』]では「願はくは」の歌は亡くなる間ぎわの詠歌として
    扱われているが、史実では西行五十代前半までに詠まれたと考えられる点である。
    これは、西行の歌集[ママ]のうち、承安元年(一一七一)から安元元年(一一七五)
    までの間に成立したと考えられる『西行心中集』の中に、この歌が収められてあり、
    そうすると歌集[ママ]の成立した西行の五十八歳[=安元元年]以前のこととなる
    からである。

久保田淳&吉野朋美(校注)『西行全歌集』(岩波文庫,2013)巻末の久保田淳「解説」は次の通り(^^)

    自詠三百六十首に贈答歌として詠まれた他人の歌十四首を加えた『山家心中集』が、
    この時[藤原]俊成に送られた詠草であると考えられる。この集が成った時期は
    明らかでないが、妙法院本『山家心中集』での俊成の歌に「右京大夫俊成」とある
    のによれば、仁安三年[1168年]の春から嘉応二年(一一七〇)七月頃まで、
    西行の五十一歳から五十三歳までの頃かと、一応推測できる。そして跋文に、
    この集は千三百首から成る『山家集』から抄出したものであるというから、
    『山家集』の原型はその時点ですでに形をなしていたことになる。

西行は文治6=建久1(1190)年に73歳で亡くなったので「晩年」に非ずヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

・こんなデタラメだらけでも目崎徳衛が「西行研究の第一人者」だなんて吃驚仰天だよヒィィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

 ⇒ https://yomunjanakatsuta-orz.blog.so-net.ne.jp/2018-10-28

・詞花集より久安百首の方が前なのに詞花集への不満から久安百首を崇徳院は詠進させたと妄論( ̄◇ ̄;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-07

・事実関係を勘違いして西行の意図を邪推し俗物に描く目崎徳衛『西行』吉川弘文館人物叢書ヾ(`◇´)ノ

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-11-20
 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-11

・古今集の紀貫之の有名な歌の詞書に出てくる「石井」を地名と勘違い∑( ̄ロ ̄|||)にゃんですと!?

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-09-18
 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2017-10-05

・小野篁も6首なのに三条院を「勅撰入集わずかに八首で、とても歌人などとは申しかねる」と暴言(゚ロ゚;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2017-10-06

・三条院の新古今集の歌の「月影」は「藤原統理の隠喩」なのに「月を詠んだもの」と浅~い解釈(゚ロ゚;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2017-10-07

・小倉百人一首に関する歴史認識の誤りと藤原良房の古今集の歌を「のびやかな作」とズレた評価(゚ロ゚;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2017-09-24

・ケアレスミスなんだろうけど、「敦良親王」を「敦成親王」と歴史家として恥ずかしい誤記(ノ_-;)ハア…

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2017-10-09

・目崎徳衛『西行』吉川弘文館人物叢書の「俊恵の生没は不明」は「俊恵の没年は不明」の間違い(-"-)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-11-13