楽天市場お買い物マラソンのダーツくじ、30pの当たりが40,000本と30,000本でも両方ハズレ(ノ_-;)ハア…
その直後に引いた楽天レシピのは1pの当たりが1,000本、楽天ブックススマートフォン版のは1pが500本、
楽天ペイのは1pが1,000本、Rakuten TVのは1pが1,000本、楽天カードのは1pが5,000本・・・それなのに
これらは当たるとは解せぬ(-ω-、) 電車で隣りに座ったおじいさんがオスカー・ワイルド『ドリアン・
グレイの肖像』の新訳の文庫本を読んでた(´・_・`) 読んだかどうか記憶に自信ないので、帰宅して本棚
から西村孝次訳の岩波文庫(1936年→1967年改訳)を出すと、栞の位置から第二章を読み終えたとこで
中断したままと判る(^_^;) 付箋が数箇所に貼られていたけど、次の台詞、読点に違和感がある(@_@;)

    「笑いで友情が始まるのはまんざら悪くないさ、そして笑いで友情が終れば
    願ってもない話なのだが、」ひなぎくをもう一本つみとりながら、若い貴族はいった。

【読んだ本】

小林保治&増古和子(校注・訳)『新編日本古典文学全集50 宇治拾遺物語』(小学館,1996)

藤原清輔が歌学書『袋草紙』で、勅撰集『後拾遺和歌集』から漏れた秀歌3首の内の1首に秦兼方の歌を
挙げてたと書いたが(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-03 )、川村晃生
&柏木由夫&工藤重矩(校注)『新日本古典文学大系9 金葉和歌集 詞花和歌集』(岩波書店,1989)に
載っている同歌と、川村&柏木による同歌の大意を、改めて引いておく(^^)

    去年[こぞ]見しに色もかはらず咲きにけり花こそ物はおもはざりけれ

      昨年見たのと、色も変わらないで咲いたことよ、花というものは
      悲しみなどというものを思わないのだなあ。
    
図書館から借りて読んでいる『宇治拾遺物語』、「十 秦兼久、通俊卿の許に向ひて悪口の事」という
説話(本書42~44頁)が面白かったので、本書の「現代語訳」を引きつつ、要約メモ(^^) ちなみに、
43頁の頭注一〇にも「・・・ここは兼久ではなく、その父の兼方であるべきところ。」とあるように、
この説話の「秦兼久」は秦兼方の誤記か^_^; では、要約メモ開始ウキウキ♪o(^-^ o )(o ^-^)oワクワク♪

藤原通俊が『後拾遺和歌集』を選んでる時に秦兼久が自分の歌も勅撰集に入るかと思って訪ねてきて、
色々と話をした後、「どんな歌を詠んだのか」と訊ねられ、次のように前置き(42~43頁)した上で、
上述の「去年見しに」の歌を披露する(^^)

    「たいした歌もございません。後三条院がおかくれになってから、円宗寺
     [=後三条天皇の勅願寺]にまいりましたが、桜の花の匂うばかりの美しさは
     昔と少しも変りませんでしたので、こんなふうに詠みました。」

これに対し、藤原通俊は次のようなケチ(43頁)をつけ、この「去年見しに色もかはらず咲きにけり
花こそものは思はざりけれ」という秀歌をあまり褒めなかった( ̄◇ ̄;)エッ!?    

    「かなりよく詠めている。ただし、けれ、けり、けるなどということは、
     あまり感心できない言葉である。それはまあそれとして、
     『花こそ』という文字は、女の子などの名につけるような言葉だ。」

秦兼久は言葉少なに席を立ち、侍たちのいる所に立ち寄って、以下の批判(43~44頁)を展開\(^o^)/

    「ここの殿は少しも歌のことをご存じない方ぞ。こんな未熟な人が撰集の勅命を
     承っておられるとはあきれたことだ。

秦兼久は、四条大納言藤原公任の有名な歌「春来てぞ人も訪ひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ」
https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-01 )を引くヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪

    四条大納言の歌に、

     春来てぞ・・・・・・(春が来てから初めて人も訪ねて来る山里では、桜の花こそ
     宿のあるじのようなものだ)
    
    と詠んでおられるのは、すぐれた歌として[勅撰集『拾遺和歌集』にも選ばれ]世の人に
    もてはやされているではないか。その歌に『人も訪ひける』とあるし[「ける」に傍点]、
    また、『宿のあるじなりけれ』[「けれ」に傍点]とあるではないか。『花こそ』と私が
    詠んだのは、その歌と同じ使いようであるのに、どうして四条大納言の歌はすぐれていて、
    この兼久めのは悪いというのか。こういう人が撰集を仰せつけられて撰にあたられるとは
    あきれたことだ」

秦兼久の退出後、侍が藤原通俊のもとへ行って上記批判を報告すると、藤原通俊は頷いて、次のように
語った由(44頁)(^_^;)

    「そうだった、そうだった。もうそれは言うな」

当時から評判が悪い藤原通俊はバカチンだし、秦兼久(⇒兼方)には特製「花こそ」座布団だな(^_^;)

この話は、『袋草紙』(藤岡忠美[校注]『新日本古典文学大系29 袋草紙』[岩波書店,1995])だと
通俊曰く〈・・・「こそ」という字不快なりと云々。〉、『今物語』(三木紀人[全訳注]『今物語』
[講談社学術文庫,1998])だと通俊は〈「花こそといへるが、犬の名に似たる」と難じける・・・〉
といった程度で、メチャクチャ短いし、やはり『宇治拾遺物語』の話の方が面白かったね(〃'∇'〃)

三木・前掲書の同逸話の〈解説〉は「『讃岐典侍日記』『袋草紙』『宝物集』『顕昭陳状』『宇治拾遺
物語』『撰集抄』に見える有名な逸話。」という書き出しなんだけど、森本元子(全訳注)『讃岐典侍
日記』(講談社学術文庫,1977)で見る限りでは、この歌が紹介されているだけで(ただし、初句が
「去年見しに」から「いにしへに」になっているが)、この逸話は出て来なかったよ(-ω-、)

だけど、三木・前掲書の同逸話の〈解説〉の中の次の件は、凄い洞察だと思いませんかヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

    三木論文は『宇治拾遺』所載話を取り上げ、その背景に分け入り、後三条院の早い退場に
    よって浮上した[白河院の近臣・藤原]通俊にとって、後三条院を追悼する歌のこの情景、
    特に「花」は通俊や白河院をなぞらえる痛烈な皮肉として映り、歌の巧拙にかかわらず、
    ほめるわけにはいかなかった、と読み解く。