♪ ウダダ ウダダ ウダウダで~ ウダダ ウダダ ウダウダよ~ この世は私のためにあるv( ̄∇ ̄)ィェーィ♪
ブログを書くことよりも、ブログにコメントしたり、返信コメント書くことの方が頭を使うよねぇ(^_^;)

【読んだ本】

片桐洋一(校注)『新日本古典文学大系6 後撰和歌集』(岩波書店,1990)所蔵本

しつこいようだけど、一流女流歌人の伊勢が宇多天皇の譲位の際に弘徽殿に書きつけた歌と、宇多天皇
による返歌を、犬養廉&後藤祥子&平野由紀子(校注)『新 日本古典文学大系28 平安私家集』(岩波
書店,1994)所収の伊勢集から、平野由紀子による歌の大意(歌番号は239と240)とともに引く(^_^;)

    わかるれどあひもおもはぬ百敷を見ざらんことのなにか悲しき

     別れてもこちらほど嘆いてくれない宮中を、見なくなることが
     どうしてこんなに悲しいのかしらん。

    身一つにあらぬばかりぞおしなべてゆきかへりてもなどか見ざらん

     (帝)私こそ退位して宮中を出るが、(私以外の者は)誰もが縁あり
     めぐり戻って宮中を再び見る日がどうしてなかろうか(きっとある)。

宮中からの退去を悲しむ伊勢に対し、貴女は再び宮中に戻ってくることもあろうと慰める宇多天皇(^^)

    (伊勢タン)こんなつれない宮中でも見られなくなると悲しいわ(´;ω;`)ウッ…

    (宇多天皇)縁あって再び宮中を見られる日がきっと来るよo(-`д´- o)ナクナヨ!!
  
さて、この伊勢の歌に関しては、橘健二&加藤静子(校注・訳)『新編 日本古典文学全集34 大鏡』
(小学館,1996)372頁の口語訳も次の通りだし、

    ともに名残を惜しんでもくれないこの宮中なのに、これから見なくなるということが、
    どうしてこんなに悲しく思われるのでしょう

片桐洋一&福井貞助&高橋正治&清水好子(校注・訳)『新編日本古典文学全集12 竹取物語 伊勢物語
大和物語 平中物語』(小学館,1994)所収の大和物語でも、高橋正治による現代語訳も次の通り(^^)

     私はここを別れていくのですが、いっこう名残を惜しんでもくれない
     この無心の宮中を、これから見ることがなくなるということが、
     どうしてこんなに悲しく思われるのでしょうか。

この3つは同旨だよね(^^) ところが、この二首とも実は勅撰集である後撰和歌集に入っているんだけど
(歌番号は1322と1323)、本書の伊勢の歌の訳が正直よく解らぬ(@_@;) その訳とは次の通り(@_@;)

    今、お別れして出て行っても、あなた様が別れを惜しんでくださることもない
    宮中なんか、見なくなることが少しも悲しくはありませんよ。

    我が身一人が再びここを見ないだけであるのに…退位するわけでもない一般の人達は
    再び戻って来て宮中を見ればよいのですよ。

伊勢の歌の「あなた様」とは誰を指すのか(@_@;) (上記三書が訳したように)擬人化した「宮中」を
指すとは読めないよね(@_@;) 宇多天皇のことを指すなら、宇多天皇は自らの意志で譲位する(=宮中
を去る)わけだから、「あなた様が別れを惜しんでくださることもない宮中」は〈宇多天皇が見捨てた
宮中〉の意となるので、そんな「宮中なんか、見なくなることが少しも悲しくはありません」で意味は
通じるとは思うけど、そう解した場合、宇多天皇の返歌は、返歌になってないと思いますねぇ(@_@;)

    (伊勢タン)陛下のいない宮中なんか見られなくても悲しくないわオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

    (宇多天皇)朕と違って、お前、パンピーだから、また見に来られるじゃん( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

本書の訳だとタカビーバカップルにヒィィィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 最近の作家による古典の現代語化みたい(-ω-、)

超寒かったからサボって今夜は湯タンポ(+_+) 求められて昨日の真っ白なネコさんの写メ送った(^_^;)