「JR東日本では都内初のカタカナとの組み合わせだったが、発表と同時に賛否両論が噴出した。」云々
と今日の日刊スポーツにあったけど、「一般公募130位(36件)」の「高輪ゲートウェイ」に「賛」意を
示した人がいたのかヒィィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ かつての「E電」に勝るとも劣らないセンスの無さだねぇ(^_^;)

【買った本&読んだ本】

井上宗雄(全訳注)『増鏡(中)』(講談社学術文庫,1983)

やたら高~い値がAmazonで付けられている中、安値のが出品されて、値下げ競争が始まったので、注視
してたけど、447円(190円+送料等257円)で充分と判断して注文した(^^) 出品者は東京都東村山市の
「ハナちゃんドットコム」なのに福岡県の「神代本舗」から届いたけど(そのことは注記されていた)、
状態は「良い」で問題なし(^^) 3日夜22時19分に注文して4日朝8時1分には発送通知という速さ(゚o゚;)

皇統が二つに分れた南北朝時代、後嵯峨院が後深草院よりも亀山院を愛したことが分裂の遠因(´ヘ`;)

    後嵯峨のように、みずからの意志によって、さらに治天の君たるべく譲位する場合と、
    土御門・後深草のように父院の圧力による場合とは根本的に違うのである。この後深草の
    怨念めいたものが、やがて皇統の分裂(ひいては南北朝の大動乱)を引起す有力な一因に
    なるのである。

このように〈解説〉を〆ている「後深草天皇譲位」という見出しの章段の〈現代語訳〉を、和歌の原文
なども注記して引用する(^^)

    その正元元年(一二五九)の八月二十八日、東宮[後深草天皇の弟で、後の亀山天皇]は
    十一歳で元服なさる。御いみ名は恒仁と申しあげる。世間で([後深草天皇の父の後嵯峨]
    上皇は、早く東宮を践祚させたいお気持ちらしいなど)だんだんとうわさされていることが
    あるので、[後深草]天皇は御不満に心細く思われて、夜、宿直で人々が詰めているとき、
    しんみりと物語りなさったついでに、内侍所[神鏡を安置する皇居内の賢所]において
    拝された日数をお数えになると、五千七十四日になった、というのを承って、弁内侍の歌、/

     [千代といへば五つかさねて七十にあまる日数を神は忘れじ]

      千代というと長い日数ですがその千を五つ重ねて、さらに七十余日
      御拝をなさった帝の御心を、神はけっしてお忘れにはならないでしょう。/

    こうして十一月二十六日譲位なさるその夜、空の様子までもしみじみと哀れで、雨が降り
    そそいで、なんとなく悲しくみえたので、あの伊勢の御が、「[あひも思はぬももしきを
    =]もうお互いに相思うこともない宮中なのに」と詠んだとかいう昔のことまでも、
    現在のことのような気がして、心細く感ぜられる。天皇も予期されていたことだが、
    剣璽[=三種の神器]が新帝の方へ渡御されるとき、これまで行幸にはいつも御身を
    離れなかった習慣として、十三年間の(思い出も)御名残が惜しく、いま別れるのは
    やはりたいそう悲しくて堪えられぬ御様子であるのを、弁内侍は悲しいことと
    お見あげ申して、次のように詠んだのであった。/

     [今はとておりゐる雲のしぐるれば心のうちぞかきくらしける]

      ちょうど暗雲が垂れ、時雨が降ってくるその折、今はこれまでと、
      主上は皇位を去られようとして落涙される。それをお見あげ申す私の心の中も、
      悲しさでまっ暗になります。

「・・・意志によらず譲位させられる後深草天皇の悲しみ・・・」(解説)が見事に描かれてる(;_;)

「伊勢の御」云々とは、宇多天皇に愛され皇子も生んだ有名女流歌人の伊勢が、宇多天皇の譲位の際に
弘徽殿に書きつけた「別るれどあひも思はぬももしきを見ざらむことやなにか悲しき」の一部で、その
「一首の歌意は、私も内裏と別れるのだが、(別れを惜しむのは私だけで)相思ってくれぬこの宮中を、
こののち見なくなることがどうしてこんなに悲しいのだろう。」と本書の〈語釈〉にあるよん(⌒~⌒)

さて、弁内侍が詠んだ「今はとておりゐる雲のしぐるれば心のうちぞかきくらしける」という歌、この
〈現代語訳〉を読んだだけで、専門家でない「一般読者」は充分に理解し味読できるのかしら(@_@;)
この章段も含む「第六」の巻の名にもなっている「おりゐる雲」についての本書の〈語釈〉を引く(^^)

    低く垂れた雲と、「おりゐ」(下り居=退位)とを掛ける。折から周辺は仲冬の下旬で、
    寒い暗雲が垂れ、時雨となって降る。その状況と帝の心情とを重ね合わせている。
    「かきくらす」は、空が曇る、心が暗くなるの意があり、「雲」の縁語。

講談社学術文庫の企画趣旨は「学術」書の文庫化なんだから〈語釈〉が付いてるのは当然のことなのに、
八百屋と勘違いして魚屋に来て魚ばかり売っているとクレームを付ける馬鹿、むしろ専門的知識のない
「一般読者」こそ〈語釈〉は本文読解の助けとなるはずなのに、猫に小判、豚に真珠、馬鹿に語釈で、
〈語釈〉の価値の解らぬ馬鹿、そんなレヴュー(珈琲はキリマンジャロ「研究者向きです」)が(゚ロ゚;)

    角川ソフィア文庫「大鏡」の物語に惹き込まれ、同じ鏡物の本書を購入しました。
    上巻では、政権が鎌倉幕府に移っていても「随分のんびりした朝廷だなあ」程度の感想
    でしたが中巻を読み進めるうちに、ウンザリし始めました。特に気になったのが、細かく
    紹介する公卿や女房の衣装、饗宴で誰が何を奏したか、語釈での登場人物の解説などです。
    世の中がどのように移り変わろうと、一切変わりなく繰り返される宮廷生活の話が延々と
    続くだけの内容で、物語自体がつまらない話です。ちょっと読んでみようかと思うには、
    上・中・下巻合わせてのお値段は高価で、中古文学や和歌を専攻していらっしゃる方なら
    ともかく、一般読者には無駄と思えるほど丁寧な語釈が付いています。
    増鏡をかじりたい方には、お薦めできません。

なお、『増鏡(上)』については⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-05-19

予報通り雨になるも思ったほど寒くはなかった(´・_・`) 他人様のブログにコメするため予習した(^_^;)

[追記181207]

坂本太郎『史書を読む』(中公文庫,1987→3版1992)は。「増鏡」の回を次の一文で〆ている(⌒~⌒)

    『増鏡』がそうした公家社会の推移を、表面きらびやかな儀式や男女の情交などを
    記しながら、裏にさりげない筆致で示していることも一つの特色である。