ホタルブクロが庭で咲いてた由( ̄◇ ̄;) 分かりにくい場所だったので今まで気付かなかったとか(^_^;)
折角、キレイだったり、可愛かったりする花が咲いてくれるのだから、気付いてあげないとね(〃'∇'〃)

【読んだ本】

宮城音弥『天才』(岩波新書,1967)所蔵本

木島櫻谷(←「このしま おうこく」と読む)がブームである(´・_・`) 芸術新潮2017年11月号の「京都
日本画秋の陣 動物名人 木島櫻谷 VS 女人礼讃 岡本神草」という記事によると、昨秋から今春の間に
木島櫻谷の展覧会は3つもあった( ̄◇ ̄;) その代表作「寒月」は第6回文展で2等賞第1席を得たけれど、
夏目漱石が次のように酷評したことでも知られているヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

    木島櫻谷氏は去年沢山の鹿を並べて二等賞を取つた人である。あの鹿は色といひ
    眼付といひ、今思ひ出しても気持ち悪くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な点に
    於ては決してあの鹿に劣るまいと思ふ。屏風に月と竹と夫から狐だか何だかの動物が
    一匹ゐる。其月は寒いでせうと云つてゐる。竹は夜でせうと云つてゐる。所が動物は
    いへ昼間ですと答へてゐる。兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が
    適当な絵である。

芸術新潮2013年6月号の特集「夏目漱石の眼」に再録されたものから孫引きしたが、元は東京朝日新聞の
大正元年(1912年)10月15日から12回にわたって連載された第6回文展評「文展と芸術」の一部だ(^^)

この漱石による木島櫻谷「寒月」の酷評は色々と解釈されてるようだが、ちょっと、一言いいですか?

夏目鏡子(松岡譲筆録)『漱石の思い出』(角川文庫,1966)巻末に収録されてる「漱石年譜」の「明治
四十五年・大正元年 四十六歳」と「大正二年 四十七歳」から幾つかピックアップしてみる(⌒~⌒)

    明治四十五年・大正元年 四十六歳

     一月一日より四月二十九日まで「彼岸過迄」を「朝日新聞」に連載す。

     九月、「彼岸過迄」出版。(春陽堂)
     同月、・・・/このころより書画殊に文人画をものし始む。
     十月十五日より十月二十八日まで「文展と芸術」を「朝日新聞」に連載す。
     十二月六日より「行人」を「朝日新聞」に連載し始む。

    大正二年 四十七歳   

     一月以降数か月の間強度の神経衰弱症状またもや発す。

もうお気付になった方もおられるだろうが、ここで本書の出番だよv( ̄∇ ̄)ニヤッ 本書から引用する(^^)

    典型的でない精神異常の天才の例として夏目漱石を考察することにしたい。/
    漱石についての記述は、主として、夫人、鏡子の『漱石の思い出』によらなくては
    ならない。当然のことながら、妻として生活を共にし、弟子たちのように天才を
    神格化し、美化する態度がないからである。なお、ムスコの夏目伸六も、この鏡子
    夫人の『思い出』に関して、「病的な父を抹殺しようとする態度に対して、私は
    私なりに母の立場を強く支持し肯定すべきだという確固たる信念を堅持している」
    (『父・夏目漱石』)とのべている。/人間・夏目漱石を明かにするのは、おもに、
    この『思い出』と長女の夫、松岡譲の著書である。/さて、『思い出』によると、
    夏目漱石が異常な状態を示したのは、三回であって、第一回は二十七―八歳のころ、
    第二回は三十六―七歳のころ、第三回は四十六―七歳のころであった。

この夏目漱石の46歳~47歳にかけての「第三回」の程度については、本書は次のように記している(^^)

    このように、第二回の病態期は、とくにひどかったが、第三回は四十六歳ごろ
    『彼岸過迄』が公にされ、『行人』の連載中で、それほど重くなく、『行人』の
    執筆を一時やめたのは、胃潰瘍が再発したためであった。

「漱石年譜」と照らし合わせてみれば、第6回文展評「文展と芸術」は夏目漱石が精神を少々病んでいる
時期に書かれたものであることが判るわけだ( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚ そういった精神状態をも考慮に入れた上で
漱石が木島櫻谷「寒月」を酷評したことを理解すべきではないかな、紳士淑女の諸君よC= (-。- ) フゥー

なお、前掲『漱石の思い出』は、この時期を記した「五一 二度めの危機」に次のような記述も(⌒~⌒)

    頭が悪くなると絵をかくと前にもちょっと申しましたが、この時にも
    ずいぶん絵をかきました。

上記「漱石年譜」を、もう一度、御覧あれオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

降り出すまで時間あったけど、身体がダルくって、歩きに行く気力はなかったよ(-ω-、)