庭の至る所で咲いてる可愛いハナニラさん、植えたわけではなく自然に生えてきたらしいよ(〃'∇'〃)
【読んだ本】
井上宗雄『平安後期歌人伝の研究 増補版』(笠間書院,1988)所蔵本
さて、高名な歴史家たちがロングセラーの歴史書において犯していた間違いを指摘してきたわけだが、
⇒ http://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-03-22
⇒ http://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-03-26
ともに重箱の隅を楊枝でほじくったもので、ケアレスミスに過ぎないかも(^_^;) ただ、そんな愚かな
記述が長年に亘って(指摘する者がいなかったのか)放置されてきた点は驚きだけどさヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
しかし、気になるのは、ともに和歌に関連した記述の誤りだということだ(@_@;) 歴史学が伝統的に
政治史を偏重してきたことは、よく知られてるけど、残念ながら、現在でも歴史研究者の意識の底流に
潜んでいて、土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,2004改版)巻末の倉本一宏「解説」に、
『王朝の貴族』刊行後四〇年の平安時代史研究を概観するというのが、
この「解説」の役目である。・・・この「解説」では、紙幅の関係上、
政治史関係を中心に述べることをお許しいただきたい。
とあることからも、歴史家の政治史偏重姿勢は観取されよう(-ω-、) 拙ブログが指摘した上記ミスも、
個々の歴史家の不勉強に帰責するのではなく、政治史偏重の結果として和歌のような文化史を無意識に
軽視する歴史学という学問のあり方から生じた構造的ミスと捉えるのは大袈裟かしら(〃'∇'〃)テヘペロ
政治史偏重パラダイムの歴史家が描く歴史上の人物は、単なる政治的人間に描かれがちだよね(-ω-、)
先日来、取り上げている藤原顕季を、竹内理三『日本の歴史 6 武士の登場』(中公文庫,1973)巻末の
「索引」で引くと、同書の中で登場するのは2ヶ所みたいだね(´・_・`)
院政時代には、この乳母関係を通じて、乳母の夫・兄弟・父子などが、
いわゆる院の近臣となって専横な振舞いをすることが多かった。院の近臣のはしり
といわれる六条修理大夫顕季の母は、白河上皇の乳母大舎人頭藤原親国の女親子
[ちかこ]である。顕季の父は無位無官の師隆であったが、無官であるため
祖父の隆経に養われた。その隆経も正四位下美濃守で終わっている中の下といった
貴族である。だが母が白河上皇の乳母であったことから、顕季は讃岐守・丹波守・
尾張守・伊予守・播磨守・美作守などの受領を歴任し、正二位大宰大弐となり、
さらに白河上皇の生母皇后茂子[もし]の兄閑院実季の養子となった。家格をあげる
ためである。その長子長実は権中納言、長実の女が鳥羽天皇のお気に入りの皇后
美福門院得子[とくし]である。長実の弟家保、その子家成も鳥羽上皇の近臣
となって権勢をふるって人々をおそれさせた。/顕季は和歌もたくみで一家をなし、
次子顕輔・孫清輔が歌の道を継承し、六条家と称して院政期の歌壇に重きをなした。
源俊頼が白河法皇の院宣を奉じて『金葉和歌集』を撰進したとき、顕季の歌を巻頭に
おいたのも、顕季の威をはばかってのことといわれている。
最後の一文がナンセンスであることは既に示したところだが、もう一ヵ所も次の通り(´・_・`)
かれ[=新羅三郎義光]には、白河院政となってから院の近臣として
権勢をふるった六条顕季と東国の荘をめぐって所領争いをした話が
伝わっている。・・・[以下、今昔物語に載る有名な話なので略]
以上、藤原顕季は「専横な振舞いをすることが多かった」、「権勢をふるった」院の近臣のイメージ
しか読者の頭には残らないだろうし、歌道の六条家の祖としての側面は「和歌もたくみで一家をなし」
と説明しつつも、その印象に影を差し打ち消してしまうような愚論を紹介する徹底さである(-ω-、)
ところが、本書を読むと、藤原顕季は単なる政治的人間には収まらない人物だったようだ( ̄ロ ̄|||)
先ず、次の記述が目に留まったよ( ̄◇ ̄;)
――顕季自身播磨守重任も、従三位・正三位の昇階も「造営賞」であったが、
勿論富力による造営で、なお一例を挙げると、嘉保二年四月廿日祭りに当って
顕季は院の豪勢な桟敷を僅か三日で造り出した(中右記)、というように、
経済力がある上に、建築土木方面の力量も勝れていたらしい。そういった
例は多いので省くが、単なる乳母子による成上りでなく、能力も高い人物で
あったようだ。
竹内理三の上記記述だと、顕季は「単なる乳母子による成上り」にしか読めないけどね(⌒~⌒)ニンマリ
最後に一言すると、顕季は和歌ばかりでなく、競馬について助友の説を受けて
顕輔・経家に伝え、包丁も子孫に伝え(吉部秘訓抄三)、鞠にも一家言あった
(第六章、頼輔参照)。顕季は一芸に秀でるという型ではなく、諸芸に興味を
有して或る域にまで達し、随時子孫に伝える事に関心があったらしい。院政期は
学芸全体にわたってそういう傾向が顕著だが、その先端をきっていた人であると
いってよい。とりわけ個性豊かであるとか、何かの蘊奥を究めたとかいう人でなく、
魅力に富む訳ではないが、当代の水準を抜群に超えた人ではあったろう。
んにゃ、竹内理三のを読んだ後には、これだけでも充分に「魅力に富む」人物だと思えるよね(^_^;)
午後に歩いて山を越え谷を越えて図書館&ブックオフ巡りをしてきて今見たら9.7kmだって(〃'∇'〃)
[追記180329]
九仭の功を一簣に虧くとは能く言ったもので、
藤原顕季とは、Renaissance man(ルネサンス的教養人、万能型の教養人)であった(^^)
で〆るのを忘れていたよ(ノ_-;)ハア…
【読んだ本】
井上宗雄『平安後期歌人伝の研究 増補版』(笠間書院,1988)所蔵本
さて、高名な歴史家たちがロングセラーの歴史書において犯していた間違いを指摘してきたわけだが、
⇒ http://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-03-22
⇒ http://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-03-26
ともに重箱の隅を楊枝でほじくったもので、ケアレスミスに過ぎないかも(^_^;) ただ、そんな愚かな
記述が長年に亘って(指摘する者がいなかったのか)放置されてきた点は驚きだけどさヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
しかし、気になるのは、ともに和歌に関連した記述の誤りだということだ(@_@;) 歴史学が伝統的に
政治史を偏重してきたことは、よく知られてるけど、残念ながら、現在でも歴史研究者の意識の底流に
潜んでいて、土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,2004改版)巻末の倉本一宏「解説」に、
『王朝の貴族』刊行後四〇年の平安時代史研究を概観するというのが、
この「解説」の役目である。・・・この「解説」では、紙幅の関係上、
政治史関係を中心に述べることをお許しいただきたい。
とあることからも、歴史家の政治史偏重姿勢は観取されよう(-ω-、) 拙ブログが指摘した上記ミスも、
個々の歴史家の不勉強に帰責するのではなく、政治史偏重の結果として和歌のような文化史を無意識に
軽視する歴史学という学問のあり方から生じた構造的ミスと捉えるのは大袈裟かしら(〃'∇'〃)テヘペロ
政治史偏重パラダイムの歴史家が描く歴史上の人物は、単なる政治的人間に描かれがちだよね(-ω-、)
先日来、取り上げている藤原顕季を、竹内理三『日本の歴史 6 武士の登場』(中公文庫,1973)巻末の
「索引」で引くと、同書の中で登場するのは2ヶ所みたいだね(´・_・`)
院政時代には、この乳母関係を通じて、乳母の夫・兄弟・父子などが、
いわゆる院の近臣となって専横な振舞いをすることが多かった。院の近臣のはしり
といわれる六条修理大夫顕季の母は、白河上皇の乳母大舎人頭藤原親国の女親子
[ちかこ]である。顕季の父は無位無官の師隆であったが、無官であるため
祖父の隆経に養われた。その隆経も正四位下美濃守で終わっている中の下といった
貴族である。だが母が白河上皇の乳母であったことから、顕季は讃岐守・丹波守・
尾張守・伊予守・播磨守・美作守などの受領を歴任し、正二位大宰大弐となり、
さらに白河上皇の生母皇后茂子[もし]の兄閑院実季の養子となった。家格をあげる
ためである。その長子長実は権中納言、長実の女が鳥羽天皇のお気に入りの皇后
美福門院得子[とくし]である。長実の弟家保、その子家成も鳥羽上皇の近臣
となって権勢をふるって人々をおそれさせた。/顕季は和歌もたくみで一家をなし、
次子顕輔・孫清輔が歌の道を継承し、六条家と称して院政期の歌壇に重きをなした。
源俊頼が白河法皇の院宣を奉じて『金葉和歌集』を撰進したとき、顕季の歌を巻頭に
おいたのも、顕季の威をはばかってのことといわれている。
最後の一文がナンセンスであることは既に示したところだが、もう一ヵ所も次の通り(´・_・`)
かれ[=新羅三郎義光]には、白河院政となってから院の近臣として
権勢をふるった六条顕季と東国の荘をめぐって所領争いをした話が
伝わっている。・・・[以下、今昔物語に載る有名な話なので略]
以上、藤原顕季は「専横な振舞いをすることが多かった」、「権勢をふるった」院の近臣のイメージ
しか読者の頭には残らないだろうし、歌道の六条家の祖としての側面は「和歌もたくみで一家をなし」
と説明しつつも、その印象に影を差し打ち消してしまうような愚論を紹介する徹底さである(-ω-、)
ところが、本書を読むと、藤原顕季は単なる政治的人間には収まらない人物だったようだ( ̄ロ ̄|||)
先ず、次の記述が目に留まったよ( ̄◇ ̄;)
――顕季自身播磨守重任も、従三位・正三位の昇階も「造営賞」であったが、
勿論富力による造営で、なお一例を挙げると、嘉保二年四月廿日祭りに当って
顕季は院の豪勢な桟敷を僅か三日で造り出した(中右記)、というように、
経済力がある上に、建築土木方面の力量も勝れていたらしい。そういった
例は多いので省くが、単なる乳母子による成上りでなく、能力も高い人物で
あったようだ。
竹内理三の上記記述だと、顕季は「単なる乳母子による成上り」にしか読めないけどね(⌒~⌒)ニンマリ
最後に一言すると、顕季は和歌ばかりでなく、競馬について助友の説を受けて
顕輔・経家に伝え、包丁も子孫に伝え(吉部秘訓抄三)、鞠にも一家言あった
(第六章、頼輔参照)。顕季は一芸に秀でるという型ではなく、諸芸に興味を
有して或る域にまで達し、随時子孫に伝える事に関心があったらしい。院政期は
学芸全体にわたってそういう傾向が顕著だが、その先端をきっていた人であると
いってよい。とりわけ個性豊かであるとか、何かの蘊奥を究めたとかいう人でなく、
魅力に富む訳ではないが、当代の水準を抜群に超えた人ではあったろう。
んにゃ、竹内理三のを読んだ後には、これだけでも充分に「魅力に富む」人物だと思えるよね(^_^;)
午後に歩いて山を越え谷を越えて図書館&ブックオフ巡りをしてきて今見たら9.7kmだって(〃'∇'〃)
[追記180329]
九仭の功を一簣に虧くとは能く言ったもので、
藤原顕季とは、Renaissance man(ルネサンス的教養人、万能型の教養人)であった(^^)
で〆るのを忘れていたよ(ノ_-;)ハア…