みどりぃ~ん♡ おねえさんがぁ~教えてア♡ゲ♡ル(*'ε`*)ウフ・・・などと書物の方から擦り寄って来る
ことはない(-ω-、) 書物そのものは本質的に受け身のメディア(´・_・`) 加えて、読書という行為は、
読み手側からの積極的な働きかけを必要とし、無批判に情報摂取に勤しむような読書のやり方などは、
大酒飲みが酒に飲まれているのと同様、書物を読んでいるようで実は書物に読まれているのさ(-ω-、)
ひさ様の「ひさの共病写真帳」で拝見したんだけど、ヒレンジャクさんの水の飲み方、面白いよね^_^;

【読んだ本】

植木久行『唐詩歳時記』(講談社学術文庫,1995)所蔵本

馬場あき子という高名な歌人が2017年9月25日の朝日歌壇で彼女のお気に入りの郷隼人の歌の選評に、

   第二首、コオロギの鳴き声を賞でるのは日本独特だったのだ。

とアホなことを書いていたヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ そこで、『詩経』の一節にコオロギが詠まれていることを
海音寺潮五郎(訳)『詩経』(中公文庫,1990)を引いて反証するとともに、百人一首にも入っている
藤原良経の新古今集の歌「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む」が『詩経』
の当該一節を踏まえていることは昔から指摘(細川幽斎など)され、同じように新古今集や百人一首の
各注釈書にも記されていることも示しておいた(170929読んだ本)(´・_・`) 本書を拾い読みしてると、

   秋に鳴く虫のなかで、最も身近な存在として親しまれてきたのは、やはり
   「蟋蟀[しっしゅつ]」(促織[そくしょく])であろう。和名はキリギリス、
   チチロムシ、ツヅリサセなど(『詩経名物弁解』巻七)。今のコオロギである。

とあり、その直後に『詩経』の当該一節が引かれ、「昔の人は、コオロギの移動によって寒さの到来を
知ったのであろうか。」とある(^-^) そして、更に本書は言う、

   杜甫の詩(「促織」)には、「促織[こおろぎ]は、甚だ微細なるに、
   哀音 何ぞ人を動かす(ゆさぶる)や」と詠まれているが、その鳴き声は、
   一般には美しいものとして人々に広く愛された。唐代、すでに虫籠の中に
   コオロギを入れて、その鳴き声を楽しんだ。『開元天宝遺事』金籠[きんろう]の
   蟋蟀[しっしゅつ]の条には、次のようにいう。
   
      いつも秋になると、宮中の皇妃たちは、みな小さな黄金づくりの虫籠に
      コオロギをつかまえて入れ、枕べに置いて、夜、その鳴き声に耳を傾けた。
      庶民の家でも、皆このまねをした。

   「庶民の家、みなこれに効[なら]う」という言葉に従えば、唐代すでに虫籠が
   民間に普及したらしい。また同じ玄宗の時代、都長安の富豪たちは、万金を費して
   蛩[こおろぎ]を手に入れ、象牙製の籠に飼い、それを闘わせて勝負を競ったという
   (『説郛[せつぷ]』巻十八に収める宋の顧文薦『負暄[ふけん]雑録』)。

もはや馬場あき子の選評「コオロギの鳴き声を賞でるのは日本独特だったのだ」は木っ端微塵(^_^;)
   
百目鬼恭三郎『続 風の書評』(ダイヤモンド社,1983)が、

   馬場あき子『歌枕をたずねて』(角川選書・八八〇円)は、歌の名所紀行だが、
   例によってはなはだ杜撰であり、この著者にはものを書く厳しさが欠けている
   としか思えない。

という書き出しで(「例によって」に注目!)、その本の記述の誤りを次々と論証してたのを、過去に
読んでいたから、今更なんだけどね(´・_・`) 去年のことだったかな、図書館に新たに入った本として
『馬場あき子の「百人一首」』(NHK出版,2016)が目立つように排架されてたから、手に取ったけど、
ちょっと読んでアホくさと棚に戻したことは、書名は記さなかったけど、ブログに書いた記憶(-ω-、)

暴風雨の朝になるという予報は大ハズレだが、午後は予報通り20度近くになり風も強かった(´・_・`)