鳥羽伏見で亡くなった祖父の遺言は「訳分らずにクリックしちゃ絶対ダメ!」というものだったから
スルーしてきたけど、よく見かける「読んだらポチっと押してね!」とか「ぽちっとしていただくと
励みになります」とあるのは何かしら(@_@) nice!は評価の意味で押してるけど、同じようにコレも
1回押せばいいのかしら(@_@;) Hなサイトに転送されたり請求書とか届かないよね∑( ̄ロ ̄|||)
「カレンダーなんて飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」ということで、サイドバーから
カレンダー消しちゃった(〃'∇'〃) 使わないしぃー毎日更新してるの明明白白だしぃーv( ̄∇ ̄)

【読んだ本】

北山茂夫『日本の歴史4 平安京』(中公文庫,1973)所蔵本

河合塾の高3の日本史で「軍事と造作」なる用語を憶えるよう受験指導を受けた(´・_・`) 本書には、

   『日本後紀』は、その年[=805年]の十二月七日の条に、ひとつの宮廷的場面を
   記録している。その日、[桓武]天皇は藤原緒嗣・菅野真道を宮中にまねき、
   「天下の徳政」を論じさせた。・・・この二人は、太政官執政部からとくに選ばれて、
   徳政という観点にたって時務策をのべる機会を与えられたわけである。/
   緒嗣の主張の要点は、/「方今[いま]天下苦しむところは、軍事と造作となり。
   この両者を停めば、百姓これ安[やす]んぜん」/であった。これにたいして、
   造宮亮[ぞうぐうのすけ]についたことのある真道は、つよくその提案に異議を唱えて
   ゆずらなかった。天皇は緒嗣の意見を採択し、ただちに計画中の第四次蝦夷征伐と
   平安京の造営を打ちきることをあきらかにした。

「要点」とあるから日本後紀に載る「緒嗣の主張」の原文は長いんだろうなぁと思ってたら、森田悌
(全現代語訳)『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)を拾い読みしてると遭遇したよ(-ω-、)

   緒嗣は「現在天下の人民が苦しんでいるのは軍事(蝦夷征討)と造作(平安京造営)ですので、
   両者を停止すれば、百姓を安楽にすることができるでしょう」という案を述べたが、真道は
   異論を立てて譲らず、緒嗣の提案に同意しなかった。

原文も確認すると、

   于時緒嗣議云、方今天下所苦、軍事与造作也、停此両事、百姓安之、真道確執異議、不肯聴焉

「要点」じゃなく全文やんけヾ(`◇´)ノ彡☆コノ!バカチンガァ!! 純真な高校生の心を弄びやがって(;_;)
リュカ様、oko様に続き、みどりんまで大人の階段をまた一つ上っちゃったじゃんか(´;ω;`)ウッ…
それでも、純金の元名古屋嬢みどりんは、まだシンデレラなのよ! オホホホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

同書「まえがき」に「・・・『日本後紀』は編者の一人藤原緒嗣の個性に依るらしく、官人の伝記を
記述するに当たりすこぶる遠慮のない人物月旦を行っている。」とあるも、軍事と造作を停止させた
自らの功績については、上記のように実にあっさりした記述で、誇らない緒嗣タン大好き(*'ε`*)チゥ

ついでだけど、同書の延暦22年(803年)3月己未(8日)の条には、

   大僧都伝灯大法師位行賀が死去した。行年七十五。・・・二十五歳のとき、
   入唐留[る]学僧となり、唐に三十一年間滞在して唯識・法華両宗を学んだ。
   帰国するとその学問を試みることになり、東大寺僧明一[みょういつ]が
   難しい質問をしたところ、はなはだ惑い解答することができず、明一に
   「日本と唐で生活の資を受けながら、学識は浅はかである。どうして
   朝廷の期待に背き、学問を身につけて帰らなかったのか」と罵られた。
   行賀ははなはだ恥じいり、とめどなく涙を流した。これは長らく異郷に住み、
   ほとんど日本語を忘れたためであった。千里の長途を行く者にとり、
   一度躓いたところでたいしたことではなく、深林にわずかな枯れ枝があっても
   影が薄くなることはないものである。行賀に学問がないとすれば、在唐時代に
   百人もの僧侶が講説・論議を行う場で第二位の座に着くことができたであろうか。

なんか凄い( ̄◇ ̄;) 直前の丁巳(6日)の条の藤原清河と阿倍仲麻呂の伝記も泣ける(´;ω;`)ウッ…

やっと買ってもらったベッドをユキ様にとられたモモ様が不憫ヾ(`◇´)ノ彡☆riverwalkサマノバカチンガァ!!