漢字タトゥーを身体に入れてる外国人いるけど、その漢字の意味も調べず、見た感じがクールと思って
やってるのかしら(@_@;) カッコいい字体とも思えないけど美意識は文化によって違うからね(´・_・`)

【読んだ本】

村山吉廣(訳編)『中国笑話集』(社会思想社現代教養文庫,1972)所蔵本

漢字タトゥーを笑う人は日本の書道も笑うべきで、本書によれば、日本の書家は「無学」だしね^_^;
「宦官」という題が付けられた風刺譚を、村山吉廣のコメントも交えつつ誤植も訂正して要約すると
・・・地方の長官となった宦官が任地で学生の実力を試そうと、「後生可畏焉」という題で文を作れ
と命じた(゚ロ゚;) コレは論語の「後生可畏、焉知来者之不如今世」(後生畏るべし、焉んぞ、来者の
今世に如かざるを知らんや)に基づく句だが、「・・・宦官は無学なため文の切り方をまちがって、
第二句のはじめにある焉(いずくんぞ)の字を第一句に附し・・・」てしまったのだ∑( ̄ロ ̄|||)ナント!?
学生達が笑い出したので傍らの教官が気を利かせて「題が難しいようなので一字減らして頂けたら」
と申し出ると、然もありなんと宦官は「では、一字とって、『生可畏焉』としたらよかろう」w(゚o゚)w
「また、つまらぬ物を読んでしまったorz」で指摘したけど、松本清張「書道教授」で主人公が書道を
習う場面に〈手本としている「蘭亭序」も「長咸集此地有」とすすんだ。〉とある(@_@) 「蘭亭序」の
「・・・羣賢畢至少長咸集此地有崇山峻領茂林脩竹・・・」からとったもので、駒田信二『中国書人伝』
(芸術新聞社,1985)の読み下し文は「群賢畢く至り、少長咸集う。此の地、崇山峻領(嶺)にして、
茂林脩竹あり。」で「少長咸集」は〈老若みな集った〉意なのに「少」を削るのはおかしいだろ(-_-)
この蘭亭曲水の宴には、王献之ら王羲之の息子達も参加してたのに、老人会になっちゃうじゃんか^_^;
石川九楊『現代作家100人の字』(新潮文庫,1998)は「書道教授」を取り上げ、その書道関連部分に
ついて厳しく評しながら、「長咸集此地有」には触れてない(@_@) となると、日本の書道では臨書対象
となる古典作品はその文意を無視して好き勝手に切り刻んでも構わないようだヒィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 河合克敏
『とめはねっ!~鈴里高校書道部』(小学館,2007)第一巻に「九成宮醴泉銘」を臨書した「終以文徳
懐遠人東越青丘南踰丹儌皆」という作品も登場する(@_@) その作品自体は書家(望月俊邦)に依頼して
書いてもらったもので、作中では鎌倉市主催の市民書道大会で優秀作に選ばれてるが、駒田・前掲書の
読み下し文によれば、「終に文徳を以て遠人を懐かしむ。東は青丘を越え、南は丹儌を踰え、皆・・・」
であり、「皆」は次の文の冒頭だから、コレは、まさに「無学なため文の切り方をまちがって・・・」
しまった典型例((;゚Д゚)ヒィィィ! 「慶応義塾大学文学部史学科東洋史学科専攻卒」でも「無学」(゚ロ゚;)
意味なんかどーでもよくて、見た目さえイケてれば良いとゆーのは、漢字タトゥーと同じじゃん(^_^;)
とまれ、本書の風刺譚と滑稽譚、更に非常に有益な内容だった「解説」も読み終えて本書も読了(^^)v

予報で言われてるほど温かくなかった(+_+) 我慢できず最後のワンピースを超高いけど注文(-ω-、)

[追記180117]

今日の朝日新聞朝刊の連載「語る~人生の贈りもの」の第11回で、石川九楊が述べてた(^^)

  書について考え始めたのは大学の書道部のころです。/「書は線の芸術である」という、
  言葉との関連を無視した書壇の「常識」に違和感を持ち、研究会の機関誌に「書は言葉と
  形象の芸術である」と書いたのが始まりです。/・・・

「書は線の芸術」が書壇の「常識」だから、日本の書家は「無学」でも大丈夫なわけだ(^^)v