大昔マスコミによって注目された頃から取り上げる価値のある女かねぇと疑問に思っていた(@_@;)
当選本数1日20本の「お買いものパンダぬいぐるみ」が当たるも、発送は9月下旬~10月上旬(@_@;)
昨日メアド作成&楽天ポイントカード登録を手伝ってメチャ疲れたことに対する労いだったり(:_;)

【読んだ本(バカチン)】

篠田鉱造『明治百話(上)』(岩波文庫,1996)所蔵本

本書に収録された話は「実話」であることが随所で強調されていて、例えば、本書の巻頭の前田曙山
「この人ならでは」には「・・・実話尽く実話に非ず、話者の境遇の如何や、見聞の誤信などが有っ
ても、実話なるが故に事実と信ぜられ、それが後世をあやまる事が往々にしてある。従ってその実話
を批判し、取捨し、斟酌考定して、その正しきカンドコを摑むのは、[本書の著者篠田]吾兄の如く、
東京育ちで、路次の抜裏まで知りぬいている人でなければ、信憑する事が出来ぬのだ。」と記され、
篠田鉱造による考証を経た「事実」のみを本書が採用しているかのよう( ̄◇ ̄;) 本書下巻の巻末の
「聞き書きの神様」と題した森まゆみによる「解説」でも「これだけ内容の濃い聞き書き集をつくる
ために、この何倍かの人に会い、話を聞き史料を調べ、いわゆるウラも取ったと推測される。」など
と太鼓判エッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ? 一方、著者である篠田鉱造は本書巻頭の「私の実話主義──話はナマ
の話に限るという事──」において、「私は実話は実話でも、実話聴取と同時に、その気分を取入れ
ないものは、実話でないという主義です。実話の話の中に、実話の気分が網膜となっているのでない
と、実話とはいえないという実話主義なのであります。」と述べており、どうやら本書の実話は単に
事実であるだけではなく真実でもある、選りすぐりの実話なのだと言いたいらしいヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

    /名人芳年は、画も名人ですが、貧乏も名人で、酔っ払いでやかましやでした。
    貧乏といったら机がないんで、机はみかん箱なんです。飯の釜はというと、
    ソノ頃の柳川鍋で、今のように小さな鍋でなく、黄[きい]ろい大きな、深み
    のある土鍋でしたから、御飯を焚[ママ]くには持って来いで、内弟子の年方や
    芳宗が、コノやかましやの先生に仕えて、苛められ抜き、ことに年方の如きは
    どういうものか、コキ使われたり苛められました。[二代歌川]芳宗[年雪]
    の方は「芳坊々々」といって可愛がられていた。[水野]年方は左官の息子から、
    大家になって、[鏑木]清方、[池田]輝方、[荒井]寛方などを出した人
    ですが、芳年の気に入らず「左官々々」といって罵しられ、泣いて辛抱したから、
    遉[さす]がに後に大家になったんです。/・・・

本書の「年方を苛め一方芳坊」という見出しの節から引いたが、月岡芳年(大蘇芳年)は生涯ずっと
「貧乏」だったわけじゃない(^_^;) 芸術新潮1994年9月号の「危い浮世絵師 血まみれ芳年、参上」
と題した特集の中の立花卓(同誌)「芳年の生涯」は、明治初期の「窮乏時代の芳年」だけでなく、
売れっ子になった芳年も描いており、公務員の初任給が月額5、6円であった頃に芳年が明治15年創刊
の『絵入り自由新聞』と契約し月給100円の社員となった事実も指摘している(^_^;) 後段の水野年方
が「コキ使われたり苛められ」た話は立花卓も〈ある時新橋の寿鶴といふ鳥屋で、[三遊亭]円朝翁
の話の速記があつた──円朝の人情話は「やまと新聞」の呼物でその速記はいつも所々のお茶屋や私
[=同紙創刊者の條野採菊の息子]の家で開かれた、話の始まる前に若い御弟子の年方さんが[芳年
から]度々叱られて居るのを見ては恐い人だと思つた、・・・〉という鏑木清方の文章を引用(^_^;)
芳年は神経衰弱で有名だし、飯島虚心(玉林晴朗校訂)『浮世絵師歌川列伝』(中公文庫,1993)は
「・・・脳病に罹りて没す。」と(@_@;) 最後に「芳年の生涯」の冒頭部分の素敵なエピソードを
引いて、本書の上記実話が読者をミスリードしかねないものであることを改めて示す( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
なお、この引用に際し、繰り返し符号は用いず、また一部の[ ]は原文ママ(^_^;)

    /晩年の芳年の姿を、鏑木清方が書きとめている。〈私が(芳年)翁の浅草須賀町の
    住居へ遊びに行く頃、翁は流れに臨んだ庭に面して大きな机を据ゑ、円らな眼に大きい
    眼鏡をかけ、厚い唇に筆を舐[ねぶ]つて版下をかいて居られた、今思ひ出しても、
    その画室も、態度も、風采も、浮世絵の泰斗といふにいかにも相応したものであつた〉。
    [「俤草」大正五年]/清方このとき七、八歳だろうか。画室で見せられた国芳や
    初代広重の折本が楽しくて、芳年から「坊ちやんなかなか絵が好きですね、一つ習ひ
    ませんか」とも言われた。少年の目に、「芳年さんは眼は大きいけれど恐くはない人だ」
    と見えたのだが……/・・・

鏑木清方が見た「大きな机」が実は「みかん箱」だったことを篠田鉱造が「何倍かの人に会い、話を
聞き史料を調べ、いわゆるウラも取った」と森まゆみは言うのかねヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!