以前から欲しかった7000円の古本を今月は買うのを何とか我慢できそうなりオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
節約してブックオフの5000円台にすべきか(@_@;) ブックオフの「可」に我慢できるかな(´ヘ`;)

【読んだ本(承前)】

中山義秀『芭蕉庵桃靑』(中公文庫,1975)所蔵本

本書は初句索引が付いてないのが瑕瑾だけど伝記小説ゆえ、制作年次順に配列された今栄蔵(校注)
『新潮日本古典集成 芭蕉句集』(新潮社,1982)で見付けた「義朝の 心に似たり 秋の風」も、どの
時期か見当を付けて探せばいいわけだが、そんな気力すら昨日は無かったよ、パトラッシュ(-ω-、)

    ・・・/

      大和より山城を経て、近江路に入りて美濃にいたるに、います・山中を過て、
      いにしへ常磐の塚あり。伊勢の守武がいひける「よしとも殿に似たる秋風」
      とは、いづれのところか似たりけん。我もまた、

     義 朝 の 心 に 似 た り 秋 の 風

    近江から美濃に入り、国境の長久寺村、今須の宿をすぎると、関ヶ原の近く、山中の部落
    がある。その山中村の北がわ、道ばたの民家のかたわら石垣の上に、五輪の石垣三基が
    あって、常磐塚とよばれている。[源]義朝の妻常磐がここまでやってきた時、盗賊に
    おそわれて殺されたという伝説があるからだ。/伊勢の守武は、神宮の長官だった
    荒木田守武、山崎宗鑑とならぶ、俳諧道の先駆者である。義朝の句は彼が神宮にささげた、
    「守武独吟千句」の中にある、

     月 み て や 常 磐 の さ と へ 帰 る ら ん

    の詠句をうけて、

     よ し と も 殿 に 似 た る 秋 風

    と付けたもの。句意は秋風が月を見て、常磐の里へ吹きかえるものならば、それは常磐の
    もとへ夜毎に通う義朝の姿に似ている、というのである。その秋風を、芭蕉は「義朝の心」
    とした。平治の戦にやぶれて都をおち、美濃路をたどる義朝の心には、秋風落莫たるもの
    があったろうする。常磐といい義朝といい、その薄命に同情をよせている点が、守武の
    作意と異っている。/・・・

今栄蔵・前掲書は前書に引かれた「義朝殿に似たる秋風」に付した頭注で「『守武千句』中の付句。
義朝は保元の乱で父為義を殺し、のち平治の乱の首謀者となって敗れ、都で娘を殺害、東国逃走の折、
美濃で二男朝長を殺し、最後は尾張の国で家臣に裏切られて惨殺された。」としか説明してないので
イミフだったけど、本書のお陰で理解できたぞ(^_^;) 芭蕉は『おくのほそ道』でも「・・・/真盛
[=斎藤実盛]が甲・錦の切あり。往昔源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給ふとかや。・・・」
(久富哲雄[全訳注]『おくのほそ道』[講談社学術文庫,1980])と記してたし、今栄蔵・前掲書
の「うそ寒い秋の風は、悪逆非道の果てに非業の死を遂げた時の義朝の心中にどこか似ている。」と
いう通釈は「悪逆非道の果てに」が余計だし、そもそも間違っている気が(昨日の記事のコメ欄での
長さん様との遣り取り参照)(@_@;) そして、「秋の風」は深読みができそうな気もする(@_@;)
ところが、麻生磯次(訳注)『現代語訳対照 奥の細道 他四編』(旺文社文庫,1970)の「野ざらし
紀行」には、ちゃんと〈『守武千句』に「月見てやときはの里へかかるらん よしとも殿に似たる秋
かぜ」。〉という注記もあったけど、「秋も末になって吹く風も蕭条として殺気をおびている。義朝
は父の頼義[ママ]を殺し、弟たちも殺りくし、晩年は琵琶湖畔からこの辺に落魄したという。蕭条
たる秋風はこの義朝の心に似ているような感じがする。」という訳が(@_@;) 納得できん(@_@;)