政略結婚の話は読んでて切なくなる(´;ω;`)ウッ… 中には女傑もいたりするけど((;゚Д゚)ヒィィィ!

【読んだ本】

司馬遼太郎(責任編集)『集英社版 人物中国の歴史 4 長城とシルクロードと』(集英社,1981)所蔵本

駒田信二『中国故事 はなしの話』(文春文庫,1981)の「細君」の項、出典の説明の後、漢和辞典や
国語辞典の様々な解釈も紹介した中に「漢、烏孫公主の名」ともあることから、後半は烏孫公主の話
になって興味深かった(^^) 匈奴を牽制するために西域の烏孫と国交を結び、烏孫の王昆莫[こんも]
の夫人として漢は公主(天子の娘)を送ることとなって、武帝は細君を選ぶも、彼女は謀叛の企てが
露見して自殺した江都王の建の娘で「武帝にとっては、一族の女のなかで、夷狄の妻とするのに最も
惜しくない者であった。」ようだが、異民族である烏孫での生活は寂しいものらしく、故郷(漢)に
帰りたいと切切と訴える烏孫公主の望郷詩が伝わっている(;_;) となると、烏孫公主のことをもっと
知りたいと思って、もしかしたら出てるかもと本棚の裏側から本書を取り出すと、檜山久雄「異国へ
嫁いだ悲運のヒロイン 烏孫公主と王昭君」があった(⌒~⌒) このシリーズは発売時に予約購入して
檜山久雄の論稿にも随所に付箋が貼ってあるけど、内容は勿論、読んだことすら憶えていない(^_^;)
檜山久雄は「二人の烏孫公主」という見出しで細君と楚王戊の孫の解憂(←女傑!)を取り上げて、
駒田信二も烏孫公主(細君)の生涯を過不足なく纏めてるけど、檜山久雄は(江都王建の謀叛・自殺
は未言及だが)要所要所でポイントとなる指摘をしてて、次の件も最後の一文で余情(´;ω;`)ウッ…

    ・・・/のちに昆莫は、死期を自覚すると、さきに子供たちの反対を押し切って
    太子に立てた孫の岑陬[しんしゅ]に、細君をめあわせようとした。父が死ぬと
    その継母をとって妻とする、というのは、『史記』が匈奴の目新しい風俗として
    書き留めたところである。おなじ遊牧民族の烏孫にもそれがおこなわれていた。
    昆莫はまだ存命中だったが、政情不安定な現在、いまのうちに次代のことを
    取り決めておきたかったのだろう。あるいは漢に帰りたがっていた細君を掣肘する
    意味もあったのかもしれない。/はたして細君は承知しなかった。父と子にしろ、
    祖父と孫にしろ、そんな形で二夫にまみえる習慣は漢族にはない。それでなくとも
    望郷の思い切なるものがあったかの女にすれば、なおさら堪えがたいことだった。
    細君は漢廷に上書して窮状を訴えた。だが、武帝からの返事は「その国の俗に從い、
    烏孫と共に胡を滅ぼさんと欲す」であった。漢にとっても、烏孫との同盟はまだ必要
    とされていたのである。それにしても、「その国の俗に從え」の勅命は、かの女の胸に
    どのように落ちたことだろうか。『漢書』は、「岑陬ついに公主を妻とす」と
    つづけている。この「ついに」の一語はすこぶる含蓄に富んでいるように思われる。/
    ・・・