たがみよしひさ『軽井沢シンドローム』は「津軽半島──竜飛 ……かつて太宰をしてこう言わしめた
── ここは本州の極地である── この村落を過ぎて路はない──」と記すが、ネットで見た限り、
「ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。」が原文で、自主規制したのか(@_@;)

【読んだ本】

後藤重郎(校注)『新潮日本古典集成 山家集』(新潮社,1982→2015新装版)所蔵本

本書は西行の「陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壺のいしぶみ外の浜風」を「陸奥の更に奥の方は、
行ってよく知りたいと思われることだよ。壺の碑[いしぶみ]とか、外の浜風とか。」と訳(⌒~⌒)

「外の浜」は応地利明『絵地図の世界像』(岩波新書,1996)が「外浜は、津軽半島基部の日本海沿岸
地方をさす古称で、中世初期のころには日本国家の東の境界と考えられてきた。」とする通りだが、
小生は知ったかぶりで「中世初期」には「外浜」ではなく「壺の石文」を「日本国家の東の境界」と
する文献も存在と孫引き(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-21 )(^_^;)
ちなみに、松尾芭蕉が実見して感激したという「壺の碑」は江戸時代初期に発見された多賀城碑で、
西行が詠んだ「壺のいしぶみ」とは別物であることも同時に紹介した〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

久保田淳『久保田淳著作選集 第一巻 西行』(岩波書店,2004)所収の久保田淳「西行における月」も
この西行が詠んだ「むつのくのおくゆかしくぞおもほゆるつぼのいしぶみとのはまかぜ」を藤原仲実
「後朝恋 石文やけふのせば布はつはつにあひみても猶あかぬけさかな」(『堀河百首』)や藤原清輔
「いしぶみやつがろのをちにありときくえぞ世中をおもひはなれぬ」(『清輔集』)等の歌の影響下
に成ったものであろうとした上で(同書272~273頁)、次のように指摘する(同書273頁)(⌒~⌒)

    ・・・けれども、「石文」は、仲実の作では後朝の新鮮な恋情の景物として用いられ、
    清輔の詠では〝よう俗世間を出離できない〟という述懐のための縁語として機能して
    いるのにとどまっている。それに対して、西行は「そとのはまかぜ」と共に「つぼの
    いしぶみ」そのものを「ゆかしく」、つまり、見たい、知りたいと思うのである。
    ここにも、北辺の風景に対する西行の強い関心が窺える。/・・・

また「・・・/本来、彼[=西行]には弧絶した自然に没入しようとする傾向が存したと考える。
・・・」とした上で次のように述べて西行の「辺境への関心」を指摘している(同書276頁)(^^)

    ・・・そのような彼だからこそ、陸奥のはて、壺の碑──これは宮城県多賀城のそれ
    ではなくて、青森県天間林のそれであることがふさわしい──や外の浜を「ゆかしく」
    覚え、「[いたけもるあまみが時になりにけり]蝦夷が千島を煙こめたり」という
    神秘的な光景をも幻視しようとするのであろう。・・・

「外の浜」と並べてるし、「陸奥のおく[=奥]」と言うんだから、「壺の碑」は多賀城のソレでは
「ふさわし」くないと素人でも思うのだが、不思議なのは本書の「壺のいしぶみ」の頭注で、冒頭の
ように訳しながら、この頭注の説明は理解に苦しむ(@_@;)

           多賀城址(現在の仙台市郊外)にある碑文。