創作上の人物なのに墓とかあったりするので実在した人物と誤解する者も出てくるヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

【読んだ本】

京都新聞社編『京都・伝説散歩』(河出文庫,1984)所蔵本

本書の購入時に、〈試しに「雀塚」の項を読んでみたが、「社会部記者」だからか、「足を使って」
集めた聞き書きそのままらしく、文献によって原話や史実との異同も調べてないし、それ以外にも
ツッコミどころ満載の文章(⌒~⌒)ニヤニヤ〉として「雀塚」にまつわる藤原実方についてのアホくさと
言うしかない記述を紹介(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-04-19 )(^_^;)

本書は「小町草紙洗ノ井」と題して、京都の一条通りから小町通りに入ったところにある「小野小町
・雙紙洗水遺跡」の碑なるものも取り上げていた( ̄◇ ̄;)

    ・・・/大伴黒主は、その日も気分がすぐれなかった。/宮中スズメの間で、
    小野小町の歌の評判があまりにいいのを、苦々しく思っていたのである。/
    ・・・/「なんのかのいったって、小町が[黒主もその一人である]六歌仙中
    ただ一人の女じゃからゆうて、ちやほやされているだけじゃないか」/そんな
    ある日である。一条のある屋敷で、黒主と小町の歌合せが開かれることになった。
    黒主は一策を案じ、出席した。/歌合せはいよいよ佳境にはいった。そして
    小町が草紙にしたためた歌を出そうとしたときである。ふと、見ると、歌は
    だれかが加筆して、自分の歌ではない。

     蒔なくに何を種とて浮草の/波のうねうね生い茂るらん

    「万葉集の盗作歌だ」と黒主は小町が歌を出すのをいまかいまかと待ちうけて
    いたのである。/小町は、何くわぬ顔で立つと、庭の、コンコンとわき出した
    井戸の水で草紙を洗うと、歌の文字が流れた。黒主の悪計は、まんまと失敗した。
    /・・・/小町の機転は、観阿弥清次の手で謡曲に演じられ井戸もますます有名に
    なった。江戸時代には井戸の端に小町塔も立った。/・・・

引用しなかった部分にもツッコミどころはあるも、この書き方だと史実あるいは伝承を基に観阿弥が
『草子洗小町』という能の演目を作ったことになるが、その逆ではないかと、根拠は無いけど(^_^;)

萩谷朴『おもいっきり侃侃』(河出書房新社,1990)には『草子洗小町』の筋書が紹介されてる(^_^;)

    ・・・/晴れの内裏歌合に、相手が小野小町と聞いて恐れをなした大伴黒主は、
    ひそかに小町の歌を盗み聞いて、早速それを万葉の草子に書き込み、帝に小町の歌は
    古歌を盗んだものと訴えて勝とうという魂胆。いよいよ当日、歌合の披講が始まり、
    「蒔かなくに何を種とて浮き草の 波のうねうね生ひ茂るらむ」と小町の歌が読み
    [ママ]上げられると、黒主用意の草子を出す。小町はすっかり面目を失ったが、
    紀貫之の取りなしで勅諚を蒙り、その草子を水で洗ったところ、黒主の入筆は
    跡かたなく流れて、小町の濡れ衣が晴れるという御存じの筋書。/・・・

安田章生『王朝の歌人たち』(NHKブックス,1975)には、〈また、晩年の小町はおちぶれて、野山を
さすらったと伝えられていまして、謡曲の「卒都婆小町」「関寺小町」「草子洗」などは、そうした
伝説にもとづいて作られています。〉とあるが、上記「筋書」から「おちぶれ」るのかねぇ(@_@;)

歌合研究の権威である萩谷朴は、こんな「内裏歌合」など無かったこと、何より小野小町と紀貫之は
時代が異なることなどから「まことに荒唐無稽な話」と評した上で「・・・こんな作り話の中にも、
一つの教訓が含まれている。」としてメチャ興味深い話を紹介していることは昨日書いた通り(^_^;)

大伴黒主も六歌仙の一人ゆえ紀貫之のような古今集時代の歌人と比べると小野小町と同様に一昔前の
歌人なんだけど、法皇ウダダの石山詣詣での帰りに打出の浜で和歌を詠んでてメチャ長生き( ̄◇ ̄;)
小沢正夫『古今集の世界 増補版』(塙選書,1976年)が伴信友『長等の山風』に基づいて述べてる(^^)

    ・・・/それでは黒主の年令は大体どの位かというと、信友は上述の宇多法皇の石山
    御幸を『石山寺縁起』によって延喜十七年(九一七)と定め、黒主の年令を九十歳と
    仮定している。信友の説も単なる仮説に過ぎないが、貞観八年(八六六)にはすでに
    近江国滋賀郡の大領を辞して隠居していたらしいので。それより五十年も後の延喜
    中葉には、相当の高齢に達していたことは確かであろう。・・・