読書の厄介なところは、騏驎も老いぬれば駑馬に劣ると感じてしまう本である〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
今までずっと「麒麟」だと思い込んでたよ( ̄◇ ̄;) 辞書で確認しながら書いてて良かった(ノ_-;)ホッ…

【読んだ本】

谷沢永一『紙つぶて 自作自注最終版』(文藝春秋,2005)所蔵本

谷沢永一『紙つぶて(全)』(文春文庫,1986)は発売直後に購入(^^) その後、PHP文庫に収録された
『紙つぶて(完全版)』を取り上げた坪内祐三『文庫本を狙え!』(ちくま文庫,2016)が文春文庫版
を単行本に無い「人名索引」が付いていたことから「ただの愛読書ではなく、近代出版文化史を学ぶ
上で、常に机上から欠かせない、貴重な一冊の辞書となった」と書いていた如く、小生は事典として
愛用(^^) しかも、本書は「人名索引」に加えて「書名索引」まで付いたので、ますます便利に(^^)v
本書「まえがき」に「昭和五十三年刊行の『完本・紙つぶて』、その四百五十五篇に、・・・新稿を
同じ篇数だけ書き加えたのが本書で・・・第一の紙つぶて六百字ごとに、そこからの連想と追加を、
ほぼ五百字ずつ新たに、第二の紙つぶてとして書き継い」だ由、一冊で二冊分と贅沢に感じる一方、
晩年の著作ゆえか弛緩した論述に目を塞ぎたくなる「新稿」もあり、『大鏡』で引いた件も(-ω-、)

    /私はかねてから、支那史および東洋史と呼ばれる領域は、学問として成り立たぬ
    のではないかと考えていた。例えば『史記』は傑作であり面白い。しかしそれは
    世界的な文芸作品としての価値であり、歴史と見做すことはできない。何故なら
    『史記』の何処がどれほど真実であるかを検証するための資料がひとかけらもない
    からである。/漢書から明史に至る謂わゆる正史も、その記述のウラをとるための
    資料文献はすべて煙滅し、紙切れ一枚も残っていない。正史とは自分が滅ぼした
    前王朝の歴史を書くのであるから、都合の悪い出来事はすべて伏せ、前王朝に対して
    書きたい放題そしり放題である。/日本の場合は、日本書紀と古事記と風土記とが
    同時代の証言と称して残っている。その日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、
    日本文徳天皇実録、日本三代実録、以上を六国史と呼ぶが、その同時代を在野の眼で
    皮肉に見た大鏡、水鏡、増鏡の三鏡がある。大鏡に至っては、よくぞここまで書けた
    ものと感嘆する。我が国は時の政権に不利なことでも書き残す律儀な国なのである。
    /・・・

ツッコミどころ満載と評するのは流石に言い過ぎかもしらんが、気になる点を一つだけ指摘すると、
「その同時代を在野の眼で皮肉に見た大鏡、水鏡、増鏡」という件がイミフである(@_@;) 「その」
とは「六国史」を指し、「その同時代を・・・見た」というのは「六国史」が対象として記述してる
神武天皇から光孝天皇までと「同」じ「時代」を「大鏡、水鏡、増鏡」は扱っているという意味なの
かな(@_@;) たしかに「水鏡」は神武天皇から仁明天皇までを、「大鏡」は文徳天皇から後一条天皇
(の万寿2年)までをカヴァーしているけど(ちなみに、『今鏡』は後一条天皇から高倉天皇まで)、
後鳥羽天皇から後醍醐天皇(の新政開始)までを取り上げた「増鏡」は「六国史」と無関係(@_@;)
『水鏡』は凡書のはずと思って、坂本太郎『史書を読む』(中公文庫,1987→1992三版)で確認(^^)v

[追記211229]

冒頭の諺の字を間違えて憶えていたのは、返信コメに書いた通り、国民的作家の代表作の所為(^_^;)