読書の厄介なところは、月が替わっておしまいよ!とはいかぬことである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
倹約・節約月間は依然として続いていて本も買えないのだ(ノ;ω;)ノ ~┻┻ (/o\) ミドリン ナカナイデー!!

【読んだ本】

黒板伸夫(日本歴史学会編集)『藤原行成』(吉川弘文館人物叢書,1994新装版)

「月に乗じて」なる表現についての本書130頁の解釈、付会による的外れの可能性は無いかな(@_@;)

    ・・・/[長保3年(1001年)8月]十二日、殿上で侍臣たちの私的な酒宴があり、
    酩酊するもの多く、なかでも左源亜相(相は将の誤り)はしたたかに酔いつぶれて
    いる。左源亜将は左中将源経房のことであろう。行成も日が暮れてから右中弁源道方
    と共に退出したが、「月に乗じて帰り畢[おわ]んぬ」とある『権記』の筆致には、
    不安な世相にふさわしくなく、どこか浮き浮きとした気分が漂っているような気がする。
    /二十三日から二十五日にかけて除目が行われたが、行成は参議に任ぜられた。
    「年三十、蔵人頭七年、大弁四年」と『権記』[長保3年(1001年)8月25日条]は記すが、
    満で数えても六年の蔵人頭の激務は省みて感慨深いものであったと思う。参議任官は
    藤原公任二十七、同斉信三十、源俊賢三十七、藤原実資は三十三であり、彼の家柄から
    みて、妥当なところであろう。なお行成の昇任に伴って蔵人頭になったのは左中将経房
    であり、思えば十二日の心浮いた小宴は、これらの人事の前祝だったかもしれない。/
    ・・・

この「月に乗じて」(なお、国際日本文化研究センターの「摂関期古記録データベース」の訓読文は
「月に乗りて」とし、倉本一宏[全現代語訳]『藤原行成「権記」(中)』[講談社学術文庫,2012]
122頁は「月に乗って」と訳)という表現に萌え、漢詩文に典拠がありそうゆえ知りたいと書いたら、
爛漫亭様から御教示を頂き(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-16 )、
「月に乗る」をネット検索すると、『精選版 日本国語大辞典』に「月の興にのる。月のおもしろさに
感興をもよおす。また、月の明かりを頼りとする。」と説明されていることが判ったのだウラー!(^o^)丿
その後、『吾妻鏡』にも、源実朝夫妻が花見をし和歌会の後に「月に乗じて還御」したという記述が
出てくることも知った(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-04-24 )(⌒~⌒)

さて、『精選版 日本国語大辞典』の「月に乗る」の説明は、A=「月の興にのる。月のおもしろさに
感興をもよおす。」、B=「月の明かりを頼りとする。」の二つに分けられ、本書の「月に乗じて」
の解釈は「不安な世相にふさわしくなく、どこか浮き浮きとした気分が漂っているような気がする」
という評からAに基づいているかと(⌒~⌒) しかし、この解釈は、後日の除目で藤原行成が参議へ
昇任した事実から遡って、行成の内心を後世の人間が推測したものにすぎず、Bであるとする解釈を
積極的に否定するものもないし、この『権記』の記述はBの解釈でも良いのではないかと(@_@;)

「月に乗じて」という表現を行成がAとBのどちらの意味で用いているのか他の例を調べようにも、
その日記『権記』を国際日本文化研究センターの「摂関期古記録データベース」を用いて「月に乗」
で検索しても、この長保3年(1001年)8月12日条以外には全くヒットしないので、同時代の同じ貴族
である藤原実資の日記『小右記』での用いられ方を調べれば、当時の「月に乗じて」の一般的な用例
も判るかもと考え、「摂関期古記録データベース」で「月に乗」で検索すると9例ヒットした(@_@;)

①永延2年(988年)10月6日条(倉本一宏編『現代語訳 小右記 1 三代の蔵人頭』[吉川弘文館,2015]
               287頁~288頁の訳)

    早朝、内裏より侍臣が大井に向かった。・・・或いは車、或いは馬に乗った。大井に
    向かって、舟に乗った。・・・大檜破子や他の食物が有った。舟に棹さして、戸無瀬
    に向かった。「暮に臨んで、和歌合が行なわれた」ということだ。修理大夫[藤原
    懐平]が大井の心を詠んだ。月に乗じて、侍臣は皆、内裏に帰り参った。・・・

②長保元年(999年)9月10日条(倉本一宏編『現代語訳 小右記3 長徳の変』[吉川弘文館,2016]
               115頁の訳)

    密々に嵯峨に向かい赴き、心情を休み慰めた。大井に於いて食した。いささか
    和歌の興が行なわれた。月に乗じて帰った。相伴したのは右兵衛督[源憲定]・
    右近源中将(頼定)・侍従(源敦定)・右馬頭(藤原通任)・太皇太后宮権亮
    (藤原景斉)・(中原)致時・(源)守隆・(源)兼澄・(藤原)伊祐の朝臣。
    ・・・

③寛弘2年(1005年)4月9日条(倉本一宏編『現代語訳 小右記4 敦成親王誕生』[吉川弘文館,2017]
               6頁の訳)

    ・・・晩方、左衛門督([藤原]公任)が来られた。月に乗じて帰った。

④寛弘8年(1011年)7月11日条(倉本一宏編『現代語訳 小右記4 敦成親王誕生』[吉川弘文館,2017]
               167頁の訳)

    ・・・/民部大輔(藤原)為任が、月に乗じて、やって来た。多くの事を談じた。
    新主(三条天皇)の御事である。「聴[ゆる]されることになるであろう内外の卿相は、
    左大臣[道長]・大納言道綱・中納言隆家・三位中将教通」と云うことだ。

⑤長和元年(1012年)5月11日条(倉本一宏編『現代語訳 小右記5 紫式部との交流』[吉川弘文館,
                2017]43~44頁の訳)

    ・・・月に乗じて、式部大輔(大江)匡衡が来た。雑事を談じた次いでに
    云ったことには、「先日は召しに応じ、早く参って、立后の行事および
    除目の執筆を行ないました。極めて感心して思ったところです」と。
    申したところは、はなはだ多く、敢えて記すことはできない。その次いでに、
    宮司除目の際の蜈蚣について語った。蜈蚣を解釈して云ったことには、
    「呉字は天口を載せ。公字は三公です。天口から出て、三公に上ることになる
    のでしょうか。呉は十二月を期すことは疑いは無いでしょう。あの日は甲子で、
    物の始めに除目を行なわれました。事の始めと称すべきでしょう。また、
    初めて皇后宮(娍子)の除目を行ないました。皇は御門[みかど]、后はきさきです。
    帝后〈御門きさき。〉を相兼ねます。除目は事の相が有ります。また、
    皇后宮大夫の名□は隆家です。訓読して云うと、『いへをさかやかす』です。
    もっとも興の有る事です」と。また、云ったことには、「周公および呉公です。
    あの家は周公です。汝[なれ](実資)の家は呉公です。あれこれ思慮しますと、
    三公に昇るのは近くにあるでしょう」ということだ。識者(匡衡)の言ったことを、
    後鑑の為、いささか記し置いたものである。「この匡衡は、何箇月か食さず、
    病悩が有りました。ところが夜に隠れて、来たところです」ということだ。

⑥長和2年(1013年)9月13日条(倉本一宏編『現代語訳 小右記6 三条天皇の信任』[吉川弘文館,
               2018]76頁の訳)

    ・・・月に乗じて、西殿に謁した。

⑦長和2年(1013年)9月16日条(倉本一宏編『現代語訳 小右記6 三条天皇の信任』[吉川弘文館,
               2018]85~86頁の訳)

    ・・・[土御門第行幸で]次いで[三条]天皇は御座に出られた。公卿を召した。
    序列どおりに参入し、御前の座に伺候した。主上が左大臣[道長]におっしゃって
    云われたことには、「男たちを舟に乗せるように」ということだ。大臣は[源]済政
    朝臣を欄の下に召し、召し仰せたのである。左大臣が云ったことには、「今夜は月が
    明るい。しばらく庭燎[にわび]を撤去しては如何であろう。先年、この事が有った
    のは如何か」と。私に目くばせして伝えられたのである。私が答えて云ったことには、
    「そうあるべき事です」と。すぐに主殿寮を退かせて、また池頭の篝火[かがりび]
    を消させた。・・・殿上人の楽人を召し、管弦を奏させた。大納言公任が拍子を取った。
    月に乗じ、舟に棹さして、音楽を奏した。その声を遥かに聞いた。数曲の後、漸く
    池頭に近付いた。・・・

⑧長和3年(1014年)10月5日条(倉本一宏編『現代語訳 小右記6 三条天皇の信任』[吉川弘文館,
               2018]231頁の訳)

    卯剋の頃、禅林寺に参った。源中納言(俊賢)・左宰相中将(源経房)・源宰相[頼定]
    ・左中弁(藤原)経通・左中将資平・(藤原)景斉・(源)守隆・(菅野)敦頼が来会
    した。その他、四、五人の雑役の朝大夫が随身した。私が食物を準備した〈・・・。〉。
    僧都(深覚)は、再三、早く参詣したことを驚く様子が有った。いささか用意された
    食物は、強飯[こわいい]であった。終日、飲食した。晩に臨んで、僧都は和歌を読んで、
    下官(実資)に寄せた。すぐに答酬した。次々の人たちは、興に乗って、杖酔し、和歌を
    読んだ。月に乗じて、各々、分散した。・・・

⑨寛仁元年(1017年)10月16日条(倉本一宏編『現代語訳 小右記8 摂政頼通』[吉川弘文館,2019]
                185頁の訳)

    宰相[藤原資平]が云ったことには、「昨日、内裏に参りました。前摂政[道長]及び
    新摂政[頼通]は、卿相と一緒に造宮所に向かわれました。月に乗じて、帰られました。
    ・・・」と云うことだ。・・・

「月に乗じて」という表現は全てのケースで少なくともBの「月の明かりを頼りとする。」の意味に
解することは可能かと(@_@;) その夜に月が出てさえいれば、いいわけだから(@_@;) てゆーか、
「今夜は月が明るい」という発言がある⑦のような場合を除いて、月が出ていたかどうかは判らない
わけで、逆に「月に乗じて」という表現があれば、当該夜は月が出ていたという推定が可能に(^_^;)
ということで、「月に乗じて」という表現は、結局、Aの「月の興にのる。月のおもしろさに感興を
もよおす。」という意味で解釈することが可能がどうかが論点ということに(@_@;) そもそも、Aの
「月の興にのる。月のおもしろさに感興をもよおす。」は内心のことゆえ、その旨を本人が(発言や
和歌等で)表明しない限り、他人がそう判断するのは困難(@_@;) Aかどうかは、シチュエーション
から推し測るしかない(@_@;) また自己(記主である藤原実資)ではなく他者を描写するのに「月に
乗じて」という表現が用いられている場合に、Aの意味と解釈するのはヨリ難しくなるかと(@_@;)
③と④と⑤と⑨は他者を描写したもので、③と⑨はシチュエーションを検討しようにも材料不足だし
(しかも、⑨は伝聞)、④と⑤は会話内容から判断して月を見て♪ウキウキランランルンルン気分で
来宅したと解せるかはビミョーなので、どれもBの「月の明かりを頼りとする。」の意味で受け取る
しかないと愚考(@_@;) ①と②と⑦と⑧は自己も含む他者集団の描写に「月に乗じて」という表現を
用いたケースで、①と②は大井に遊覧、⑦は土御門第行幸、⑧は禅林寺に遊び、和歌あるいは音楽に
興じたり、飲食も楽しんでおり、Aの「月の興にのる。月のおもしろさに感興をもよおす。」という
意味に解するのは自然か(@_@;) 自己を描写した⑥は藤原道長邸で行なわれた競馬(くらべむま)で
のこと(@_@;) 清少納言は「くらべむまみる」=競馬を見る(時)を「むねつぶるゝ物」として先ず
挙げるが、萩谷朴『枕草子解環 三』(同朋舎出版,1982)によると、「むねつぶる」は「ひやひや、
はらはら、どきどきする、危惧に満ちた不安な心理状態」で、「競馬」がAの「月の興にのる。月の
おもしろさに感興をもよおす。」という心理状態に導くようなものなのかどうか、小生にはチト判断
がつきかねる(@_@;) さて、さて、さ~て!冒頭の『権記』の「月に乗じて」の表現、当初の目論見
とは違って、本書の解釈の通りのAの意味で良い気が(._+ )☆ヾ( ̄ヘ ̄; )タイザンメイドウシテネズミモデネーシ!

[追記221121]

読んでたら見覚えのない「月に乗じて」が出て来たので、改めて検索したら何故か増えてた(@_@;)

⑩万寿2年(1025年)7月15日条(倉本一宏編『現代語訳 小右記13 道長女の不幸』[吉川弘文館,
               2021]210頁の訳)

    両宰相[[藤原]経通・[藤原]資平]が来た。すぐに御堂(道長)の念仏に参った。
    月に乗じて、宰相が帰って来て云ったことには、「禅閤(道長)は簾[すだれ]の前に
    出ませんでした。また、饗饌はありませんでした。『院の御息所の事による』と云う
    ことでした。関白(藤原頼通)・内府[藤原教通]及び卿相が参会しました。内府は
    関白の児(藤原通房)を抱いて、客亭に出ました」と。

⑪長元2年(1029年)9月8日条(倉本一宏編『現代語訳 小右記15 道長薨去』[吉川弘文館,2022]
               300~301頁の訳)

    中納言[藤原資平]と同車して、西山に向かった。常隆寺の辺りの寺に到って、
    成教上人に会った。八仙[はつせん]の居のように建立していた。寺は慈心寺と
    号した。その寺の辺りに、また草庵を構築していた。「終焉の処として、常住して
    念仏しています」と云うことだ。もっとも随喜した。日没に到った頃、退帰した際、
    棲霞寺より利原阿闍梨・兼円が来会した。途中、しばらく清談した。月に乗じて、
    家に帰った。「兼円は管絃の師です」と云うことだ。