PCに映っている自分の映像が左右反転してることに直前になって気付いたからパニクったヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

【読んだ本】

倉本一宏編『現代語訳 小右記4 敦成親王誕生』(吉川弘文館,2017)

このシリーズで藤原実資の日記『小右記』を何冊か読んだ限りでは、誰かが和歌を詠んだり、実資が
和歌を詠んだりする場面は数えるほどだし、しかも和歌が引かれている場面はレア(@_@;) なので、
本書3頁の寛弘2年(1005年)4月2日条からメモっておこう_φ( ̄^ ̄ )メモメモ

     二日、己卯。 道長・公任、和歌を贈答/河内国司申文

    前越後守朝臣(藤原尚賢)が云ったことには、「・・・昨日、左府[藤原道長]が
    和歌一首を左金吾(藤原公任)に贈られて云ったことには、『谷の戸を閉ぢやはてつる
    鴬の待つに声せで春も過ぎぬる(谷の戸を閉めてしまったのか。鴬を待っていたのに、
    声もしないで春も過ぎてしまった)』と。返歌は、「往き帰る春をも知らず花さかぬ
    深山かくれの鴬の声(春がめぐってきたことも知らず、花も咲かない深山の陰で鳴く
    鴬の声なのです)』でした」と。・・・

不思議なのは藤原道長の日記『御堂関白記』の寛弘2年(1005年)4月1日条を倉本一宏(全現代語訳)
『藤原道長「御堂関白記」(上)』(講談社学術文庫,2009)で見ても歌の遣り取りがあったことすら
記してないこと( ̄◇ ̄;) というのは、『御堂関白記』は、多くはないけど詠んだり詠まれたりした
和歌も記していることがあり、公任との贈答歌を記した日(例えば、寛弘元[1004年]年2月6日条)
もあるから(@_@;) ちなみに、4月1日の前日には藤原伊周の作った詩に「満座は涙を拭った」「上下
の者は涕泣しました。主人(道長)感嘆しました。」などと『小右記』にはあるのに、道長は一言も
言及していないんだよね(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-28 )(^_^;)

この贈答歌の背景を小町谷照彦『王朝の歌人7 藤原公任』(集英社,1985)から引いとくv( ̄∇ ̄)ニヤッ

    ・・・[寛弘元年(1004年)]十月ころから公任は出仕しなくなった。公任のあとを
    追って、官位の昇進を続けていた藤原斉信が、逆に公任をぬいて上位になったのを、
    不満に思ってのことである。・・・つねに公任より一歩下位に立っていたが、この年
    十月二十一日に一条天皇の松尾・平野両社行幸行事賞によって従二位をさずけられ、
    ついに公任を越えてしまった(『公卿補任』)。いっぽう、公任は、長保三年[1001年]
    十月に正三位左衛門督になって以来、官位の昇進はなかった。斉信が道長一門なら
    まだしも、公任のいとこの子であり、才名を競いあっていた相手だから、公任の衝撃は
    大きく、そのまま籠居してしまい、出仕しなくなった。/・・・

この贈答歌の後、4月17日には小野道風の書いた手本を公任の子に贈ったことが出ているように実資も
公任のことを気遣ってるが、『御堂関白記』を読んでると道長もそんなに嫌な奴ではない気に(^_^;)
碩学・土田直鎮は〈・・・常々、「俺は道長なんかと酒を飲みたくない」とおっしゃっていたという〉
と同『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,2004改版)巻末の倉本一宏「解説」にあったけど(^_^;)

・「古今集に次ぐ勅撰和歌集である拾遺集」だとぉ!土田直鎮も無教養ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-03-26

・土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』は『紫式部日記』を誤読してるヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-04