読了した本が今月あと2冊あるけど、連日のあまりの暑さに、ブログに纏めることが出来ぬ(ノ_-;)ハア…

【読んだ本】

小町谷照彦『王朝の歌人7 藤原公任』(集英社,1985)所蔵本

倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(上)』(講談社学術文庫,2009)を読んでると、
「作文会」(「用語解説」では「漢詩を作る会合」とし、「さくもんかい」とルビ)がよく開かれ、
倉本一宏(日本歴史学会編集)『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書,2003新装版)に、開催数の多さ、
一条朝が「詩文の興隆に大きく寄与した」こと等を指摘する諸研究が紹介されていることを、昨日は
記したけど、実は「作文会」においても和歌が詠まれることがあることは本書に出ている( ̄◇ ̄;)

    ・・・/[長保元年(999年)]五月六日、七日の両日にわたり、道長邸において
    作文会[さくもんえ]が催された。[道長の日記]『御堂関白記』の六日条に、

      東ノ対ニ於イテ、作文ノ人々ヲ召ス。中納言(隆家)・右衛門督(公任)・
      宰相中将(斉信)等、然ルベキ殿上人等来タル。

    七日条に、

      早朝文ヲ講ズ、題、水樹佳趣多シ、(紀)斉名朝臣出ス所ナリ。韻、深ノ字、
      (大江)以言朝臣。序、[大江]匡衡朝臣。此ノ後、韻ヲ掩[おほ]フ。

    とある。題を斉名、韻を以言が出し、序は匡衡が執筆した。一条朝の有力な文人たちが
    総登場しており、道長の権勢がうかがわれる。匡衡の序と詩が『江吏部集[ごうりほう
    しゅう]』に収められている。『本朝麗藻』に斉信と[源]道済の詩が、また『類聚
    句題抄』に斉信・道済・匡衡・斉名・以言の詩句がみえる。公任の詩は伝わっていないが、
    『拾遺和歌集』雑賀に歌が残されている。

        右(正しくは左)大臣家つくりあらためて渡りはじめける頃、
        文作り、歌など人に詠ませはべりけるに、水樹歌趣多シといふ題を

      住みそむる末の心の見ゆるかな汀[みぎは]の松の影をうつせば

    詞書によれば、道長邸の新築を祝った催しで、漢詩と同じ題で和歌も詠まれたらしい。
    千代あるいは千年[ちとせ]という長久の印象をもつ松によって、新邸の永久の存続を
    予祝した歌である。汀の松が水に姿を映しているのを見れば、住みはじめた家が末永く
    続くことが予想される、という意の歌である。/・・・

『御堂関白記』に頻出する「作文会」開催の記述、実は和歌も詠まれてたかもオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

なお、wikiの「藤原公任」の項の次の記述、本書の上記記述と異なるが、どちらが正しいのか(@_@;)

    5月6日:道長邸の改築に伴う祝宴に参加。当日公任が詠んだ漢詩は『本朝麗藻』に、
        和歌は『拾遺和歌集』に残る

このwikiの記述は、「・・・祝宴に参加。」に注が付されて「『御堂関白記』長保元年5月6日条」が
典拠として挙げられてるけど、『御堂関白記』の同条には「道長邸の改築に伴う祝宴」なんて記述は
(上記の通り)無いので(倉本一宏・前掲書のは少し記述が異なるが、やはり、そんな記述は無い)、
チト信用性が低いかとC= (-。- ) フゥー またwikiには出てない論点として小町谷照彦(校注)『新日本
古典文学大系7 拾遺和歌集』(岩波書店,1990)の上記歌の脚注の「右大臣」の語釈を( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    長保元年(九九九)五月六日から七日にわたって、「水樹多佳趣」という題で作文会が
    藤原道長邸で催されていることから(御堂関白記)、左大臣の誤記として、道長とする
    のが通説であるが、諸本一致して「右大臣」で、「左大臣」の異文がないこと、異本系統
    では「水樹多佳趣といふ題を」の部分を脱している伝本が多いこと、作者表記の権中納言
    敦忠が見せけちになっており、異本系統を含めて敦忠の作者表記を持つ伝本があること
    などから、右大臣師輔の新築祝の歌を敦忠が詠んだ歌とする説がある。