来月買う予定の古本、付けられた値は同額も、片方の出品者は「箱付。箱にスレ、ヤケ、シミ、傷み、
表紙に多少のスレ、シミ、天地小口にヤケ、シミ、本に多少の剥がし跡、があります。本を読むことに
支障はございません。」で「可」、もう片方の出品者は「函ヤケあり。多少の書込、ライン引きあり。
【商品説明】この商品はコンディション3(良い)の商品です。」で「良い」とあり、悩むねぇ(@_@;)
それにしても「多少の書込、ライン引きあり」で「良い」というのは珍しい気がするのだが( ̄◇ ̄;)

【読んだ本】

片桐洋一『古今和歌集全評釈(下)』(講談社学術文庫,2019)所蔵本

昨日の杉本苑子『流されびと考』(文藝春秋,2002)に流されて、小町谷照彦(訳注)『古今和歌集』
(ちくま学芸文庫,2010)の訳で在原行平の歌と詞書を引くよ~ん〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

      田村の御時に、事にあたりて、津の国の須磨といふ所に籠り侍りけるに、
      宮の内に侍りける人に遣はしける

    わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ

       文徳天皇の御代に、ある事件にかかわり合って、摂津の国の須磨という所に
       引き籠もっておりました時に、宮中にお仕えしていた人に贈った歌

     ひょっとして私のことをどうしているかと尋ねる人がおりましたならば、
     須磨の浦で泣き悲しみながらわびしく過ごしているとお答え下さい。

詞書の「ある事件にかかわり合って、摂津の国の須磨という所に引き籠もっておりました」に関して
本書の補注は次のように記しているよ~ん〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    行平が須磨に流罪になったことは、歴史の記録になく、事件の内容は不明。
    一時籠居でもしたのか。・・・

奥村恆哉(校注)『新潮日本古典集成 古今和歌集』(新潮社,1978)の頭注も次の通り( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    事件の内容は不明だが、前歌[「隠岐国に流されて侍りける時によめる」という
    詞書が付された小野篁の歌]の場合のように「流され」(流刑)ではなく、
    「こもり侍りける」であるから、自ら都を避けていたのであろう。

久曾神昇(全訳注)『古今和歌集(四)』(講談社学術文庫,1983)の〔鑑賞〕も引くC= (-。- ) フゥー

    「事にあたりて」とあるが、具体的には不明である。六国史などの正史にも見えない。
    官位の昇進を見るに、承知十三年(八四六)七月から、仁寿三年(八五三)正月までの間に
    記事がないので、仁明天皇最後ないし文徳天皇最初あたりのことであろうか。

片桐洋一『原文&現代語訳シリーズ 古今和歌集』(笠間文庫,2005)の脚注もオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

    行平が流罪になったという記録はない。何か事件があって、みずから籠居したのであろう。

小島憲之&新井栄蔵(校注)『新日本古典文学大系5 古今和歌集』(岩波書店,1989)脚注は予想通り
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-01-19 )、いや、むしろ、意外なことに
(後述)、この点について一言もないぞ(ノ ̄皿 ̄)ノホント!ツカエネー!!┫:・’.::

では、真打登場ということで、本書の「事に当りて」の【語釈】を引くよオホホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

    事件に関連して。文徳天皇の時代(八五〇~八五八年)に在原行平にかかわる事件が
    あったことは確認できない。個人的な事件か。

本書の魅力は何と言っても【注釈史・享受史】の項だろうけど、この歌の同項を引くよv( ̄∇ ̄)ニヤッ

    右に述べたように、在原行平の須磨引退の理由は不明だが、鎌倉時代から南北朝時代に
    かけて成立したと思われる『古今集』の注釈書では、勝手な付会説が記されている。/
    まず『毘沙門堂旧蔵古今集注』では、

     田村ト云者、文徳天皇也。此ハ、摂津須磨ニコモリ侍ルト云者、天安二年、大嘗会ニ、
     中納言藤原師茂ト座ノ上下ヲ論ジテ冠ヲ打落タリシニヨリテ被流遣ト也。

    と根拠の知られないことを述べているが、冷泉為相の説を伝えると称する『大江広貞注』
    では、

     文徳天皇の御事也。事にあたりてとは、文徳天皇の御年たけて、野遊行幸に行平中納言
     鷹飼にて供奉せられけるが、鶴を摺りたる狩衣を着て、此歌をよみける。
     歌に、

       おきなさび人なとがめそ狩衣今日ばかりとぞ田鶴も鳴くなる

     述懐を思ひてよめけれども、みかどの行幸今日ばかりと申すかときこしめして、
     天気あしかりければ、門鎖して、都にも住まずして、摂津国須磨といふ所に住みけり。
     その後、この歌を書きたりけるを御覧じなほして、御勘気許されにけりとなん。

       翁さび人なとがめそ狩ころも今日は狩とぞたづも鳴くなる

     是を、事にあたりてとは云也。

    と注しているのだが、この「翁さび~」の歌は、『後撰集』雑一・一〇七六では、行平が
    晩年に光孝天皇(在位は八八四年二月~八八七年八月)の鷹狩で詠んだ歌となっていて、
    右の注釈書がまったくの付会であることを知るのである。

前者は藤原実方が会うなり何も言わずに藤原行成の冠を叩き落としたのを一条天皇が目撃されて実方
を陸奥守に左遷したという『十訓抄』『古事談』等の説話と似ているし、後者は光孝天皇のお怒りの
ポイントは少し異なるけど『伊勢物語』の百十四段と同じ(^_^;) アホな話を創る輩がいるねぇ(^_^;)

小島&新井・前掲書について、谷沢永一『紙つぶて 自作自注最終版』(文藝春秋,2005)が次の如く
批判してたけど、ここでは〈意外なことに〉『毘沙門堂旧蔵古今集注』に騙されなかったのね(^_^;)

    ところで『毘沙門堂旧蔵古今集注』という古注釈書があって、この歌の出典は『漢書』と
    『白氏文集』だと記しているのであるが、片桐洋一の調査では事実無根である。然るに
    新井栄蔵(『新日本古典文学大系』)は鉄面皮にも『毘沙門堂旧蔵古今集注』を丸写しして、
    漢書と文集を出典として挙げている。漢書や文集のように流布している典籍を確認する労さえ
    厭うような学問には適さない懦弱な男に、古今集という大切な古典を担当させた編集部にも
    責任があろう。鎌倉から南北朝にかけての古注釈書は、ありもしない出典を捏造して、
    学問的な深さがあるように、手練手管を弄したのである。

金子元臣『古今和歌集』(明治書院,1908)に「事にあたりては、勅勘を蒙るをいふ。」とあるのも、
「付会説」を真に受けたっぽい(^_^;) 同書を引いたブログ主も真贋を見抜く眼識が無いね(⌒~⌒)