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【読んだ本】

宮崎莊平(全訳注)『紫式部日記(上)』(講談社学術文庫,2002)所蔵本

『なんでここに先生が!?』じゃないが、何で招かれて談笑してるのか理解に苦しむ人物を発見(゚ロ゚;)

一条天皇の中宮彰子が無事に敦成親王(後の後一条天皇)を出産し、父・藤原道長の邸宅・土御門第
に招集されていた公卿たちの嬉しそうな様子を描いた章節を本書の〈現代語訳〉で引く(⌒~⌒)

    いつものように、渡殿にある[自分の]局から眺めやると、(寝殿の)妻戸の前に、
    中宮の大夫[藤原斉信]や東宮の大夫[藤原懐平]など、その他の公卿たちも大勢
    伺候していらっしゃる。・・・公卿たちの面持ちは、いかにも満足げな様子である。
    心の中に何か心配事があるような人でも、この時ばかりは、ふと忘れてしまいそうな
    あたりの雰囲気である中でも、中宮の大夫は、格別に得意げな笑顔をみせるわけではないが、
    誰よりもまさる嬉しさが、自然と表情に出るのも道理というものである。右の宰相の中将
    [藤原兼隆]は、権中納言[藤原隆家]と冗談を言い交わして、東の対屋の縁側に
    座っていらっしゃった。

藤原隆家は一条天皇の皇后だった故・定子の弟で、藤原道長のライヴァルだった藤原伊周の弟(@_@;)

倉本一宏(日本歴史学会編集)『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書,2003新装版)から引くv( ̄∇ ̄)ニヤッ

    ・・・/寛弘五年(一〇〇八)九月九日夜半、彰子に産気が起こり、丑刻(午前一時
    から三時)、土御門第寝殿の東母屋に白木の御帳を立てて、産所とした(『権記』)。
    十日が明けると、道長の招集に応じた諸卿が続々と駆けつけ、寝殿の簀子敷に候じた。
    ところがこの日は、産気は微々たるものであり、邪気(物怪)が出現するばかりで、
    一向に御産はなかった。/この日、道長は土御門第を訪れた顕光と公季に面談したが、
    その後に伊周が参入しても会おうとはしなかった。実資は「事、故あるか」と記している
    (『小右記』)。これまでの一条後宮の推移を考えると、「御物の怪どもかりうつし、
    かぎりなくさわぎののしる」(『紫式部日記』)必要性は十分にあり、道長が定子の兄
    である伊周を怖れるのも当然であった。/翌九月十一日の暁に寝殿の北庇に移った彰子は、
    午刻(午前十一時から午後一時)、「御物の怪のねたみののしる声などのむくつけさよ」
    (『紫式部日記』)という状況の中、「平安に」皇子を出産した(『御堂関白記』)。/
    ・・・/ともあれ、これで[定子が産んだ]敦康[親王]は、道長にとってまったく
    無用の存在、むしろ邪魔な存在となったのである。同様、伊周をはじめとする
    中関白家の没落も決定的となった。・・・

自らもその一員である「中関白家の没落も決定的となった」のに「冗談を言い交わして」るとは(゚ロ゚;)