イイクニつくろうハトさんも(^o^)丿 玄関前のモミジにハトさんの巣が∑( ̄ロ ̄|||)にゃんですと!?
剪定の業者さんが発見との知らせに見に行くと、ハトさんは電線にとまっていたので、巣をよぉーく
観察したら、巣の中に何やら蠢くものが( ̄◇ ̄;)エッ!? 雛がいたよヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 撮ろうとケータイを
近づけたら、ハトさんがバタバタと近くに飛んで来た(゚ロ゚;) 後ほど再び見に行くと、ハトさんは巣に
座ってて、ケータイを近づけても微動だにせず、撮ってても瞬き一つしない( ̄◇ ̄;) お腹の下の雛は
苦しくないのかしら(@_@;) 空気椅子だったりして(^_^;) それにしても、家族を始め玄関から出入り
する人や道路を歩いている人、誰も気付かなかったのか( ̄□ ̄;) 雛は啼かないのかしら(@_@;)
4年前にも同じく庭の剪定でヒヨドリさんの芸術的な巣(卵2個入り)が見付かったけど、知らない間に
棲みついている生き物がいるのね(@_@;) ガンプラ作ってるカエルも潜んでたりして((;゚Д゚)ヒィィィ!

【読んだ本】

角川書店編『日本史探訪 6 源平の争乱』(角川文庫,1984)所蔵本

続けて木下順二「平知盛 壇ノ浦に沈んだ平家の公達」(構成 杉崎厳一郎)を読んだ(´・_・`) 木下は
平知盛を「西洋の古典の中にしばしば出てくるような人間像として描かれている」と主張する(@_@;)
平重盛が自分と自分の一族が滅びるべき運命を予感しながらも、その運命に従順であったのに対して、
平知盛は自分の運命に抗いながら、十分に生き生きと生きたと捉えている(@_@;) とは言いながら、

    ・・・/では知盛が、さっき言ったように、はっきりとどこで歴史全体、運命全体
    というものを見通しえたかということは、『平家物語』に、重盛の場合のように
    はっきり書いてないのでわかりませんけれども、だんだんに読んでいくと、ことに
    これは少し私のほうに読み込みもあるかもしれませんが、だんだんに知盛が活躍しだす、
    その振幅が激しくなる──振幅というのは感情の振幅と行動の振幅の両方で──つまり、
    非常に勇敢な手柄を立てるかと思うと、今度は逆のことをやるという、そういう話が
    出てくるわけですけれども、そういう行動がだんだん進んでいくにつれて、しだいに
    自分と平家の一門の運命というものを感じ出してきている。また、感じることによって、
    逆に行動の振幅が激しくなるという、そういうふうに読み込めると思うわけです。

平知盛が活躍するとこまで『平家物語』は読み進んでないから何とも言えないけど、二つの台詞から
平知盛像を構築してる感じ(@_@;) 「板垣死すとも自由は死せず」による板垣退助像みたい(^_^;) 

    知盛の言葉として、「運命尽きぬれば力及ばず」というのが壇ノ浦合戦のところに
    出てきますけれども、この運命というのは、われわれが普通、運命とか宿命とかいうふうに
    小さくやせて使うものと違って、たとえば、ギリシア悲劇における運命というような
    大きさのものだと思います。今日の言葉で、というより、私自身の言葉で言い直すと、
    歴史の必然性というようなことになります。/・・・

解るような解らないような(@_@;) もう一つの台詞について木下が語っていることは解るけど(^_^;)

    最後に、知盛は、「見るべきほどのことは見つ」と言う。自分は、見届けなければ
    ならなかったこと、すなわち、平家一門の最期は見届けたんだという言葉を吐いて、
    鎧を二領着て、他の者たちといっしょに、ずぶりと海に入ってしまう。そこで
    平家の滅亡が決まるわけですが、その言葉には千鈞の重みがあるという解釈を、
    石母田正君がしています。/これはどういうことかというと、ずうっとお話し
    してきたように、知盛というのは、とにかくよく生きようとしてきた。
    よくというのは、・・・別に倫理的な規準がどうというのではなくて、
    彼が置かれた立場ですね、平家一門の中でのリーダーズの一人であるという、
    それもきわだったリーダーズの一人であるという立場にあって、兄重盛のように
    おとなしくなってしまうのではなくて、自分なりにとにかく生きようとしてきて、
    その中でいろいろなことを見てきた。全体としてみれば悲劇であるのだけれども、
    平家滅亡の悲劇が作られた根本には、いろいろと喜劇的なことがたくさんあった。
    それこそ自分自身が息子を目の前で見殺しにして、あとで泣きわめいたなどということも、
    喜劇といえば実に喜劇的で滑稽なことなんです。/そういう、自分自身を含めて、
    そういうことをいろいろと見てきて、そして自分一人ではどうにもしようがない
    運命の中で、しかしその運命に盲従するのではなく、その中でなんとかその運命に
    あらがいながら生きようとしてきて、とうとう最後のここへたどりついた。
    たどりついたところで考えてみると、「見るべきほどのことは見つ」ということになる。
    ・・・/それを最後にひとこと言ってずぶりと死んでしまうという、そういう形になる。
    そういうことで、やっぱり壇ノ浦という最後のところで、知盛的な要素がずいぶん
    凝縮されて描かれているという気がしますね。

睡眠中に足を攣るわ、歩き廻って具合悪くなり道に座って休んだ(+_+) 帰宅後の経口補水液が美味(+_+)