「寝坊した(+_+) 今日も昼過ぎに雨が止んで陽射しが戻るまではセーターを着込んでいたよ(@_@;)」と
ちょうど一年前に書いてたけど、20度を超えて長袖シャツだけで歩き廻っても余裕の暑さだった(@_@;)

【読んだ本】

前坂俊之『ニッポン奇人伝』(現代教養文庫,1996)所蔵本

「まえがき」で奇人論をに展開した後、「第一章 作家は奇人変人なり」は「永井荷風」から始まるが、
引用を憚るような内容の逸話ばかりゆえ、その中から無難なのを一つ二つメモっておこう(^_^;)

    荷風は生涯、「ソロバンも字も、読めないような人」を好んだ。そうした人は
    自分を利用しないし、特別扱いもしないから、といのうが理由。贈りものなど
    大嫌いでカンカンに怒った。/千葉県市川駅前に、ただ一軒荷風の好きな石衣
    (干菓子の一種)を売っている店があったが、ある日、買うと、オマケをつけて
    二、三個余計にくれた。/荷風はそれ以来、その店にはプッツリ行かず、
    わざわざ遠くの店まで、買いに行くようになった。

    駅前の銀行にも預金をしていた。預金額第一位の上得意のため、支店長は荷風が行くと
    支店長室に招き入れ、コーヒーを出して歓待した。帰宅すると、わざわざ贈りものまで
    届いていた。怒った荷風はすぐその足で銀行に行き、預金を全額おろし、別の銀行に
    変えてしまった。この銀行では〝荷風流〟をちゃんと心得ており、「いらっしゃいませ」
    とも言わず、知らん顔で応対した。

    荷風は晩年、浅草の観音さまの「大吉」のオミクジを大事に持っていた。
    亡くなった時も胸のポケットに入っていた。/アメリカ、フランスでの生活で
    事故なく無事だったのは、観音さまにお祈りしたおかげと信じていたのである。/
    戦争中「偏奇館」が焼けませんようにとお祈りしながら、引いたオミクジは
    「凶」と出て、空襲で焼失してしまった。

    このため、一層、おみくじ[ママ]を信じ、ポックリ死ねるように観音さまに
    お祈りしていた。/七月九日に必ず亡くなるように願をかけていた。尊敬する
    上田敏、森鷗外がいずれも、この日に亡くなっているから。/荷風は親しい友人に
    「この日でなければ、どの月の九日でもいいから死にたいね。観音さまにいつも
    祈っているよ」と言っていたが、その希望が半分かない「ポックリ」と
    昭和三十四年四月三十日に八十一歳で亡くなった。 

なお、戸板康二『新々ちょっといい話』(文春文庫,1987)に「・・・七月に没した著名な文人の数は
多いが、この月の九日が、偶然、上田敏(大正五年)、森鷗外(大正十一年)、戸川秋骨(昭和十四年)
の共通した忌日である。/三人とも、外国の文学を日本に移植した業績を持っている。・・・」とあり、
永井荷風は戸川秋骨と慶応大学で同僚だったのに、その名前を挙げていないね(@_@;)

人嫌いである永井荷風、見知らぬ者が訪問してきた場合のその対応については、先日取り上げたけど
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-17 )、同逸話を本書も紹介してて、
「三省堂編集部員が昭和七年二月三日に偏奇館を訪れた時のこと。」として詳述してるし、荷風への
小生の印象を一変させた逸話(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-06-11
も金額が大きく違ってる上に、「通帳」の他に「文化勲章年金」などの「小切手」まであった(^_^;)