やらなきゃいけないことがあったけど今日もサボったのは、全てのことが億劫に感じられるから(-ω-、)
「億劫」を『大辞林』初版第一刷で引いたら、用例に「こたつに入ると、仕事をするのが──になる」と
あって、ちょっと笑った(^_^;) でも、「こたつに入」れる職場って、どんな「仕事」なんだろう(^_^;)
【読んだ本】
杉本苑子『西国巡拝記』(中公文庫,1980)所蔵本
本書の「第二十二番 総持寺」で、「この寺の開創者、山蔭中納言政朝が、日本庖丁の元祖といわれる
料理の神サマ・・・」云々などと、苑子タンは記した後、
ところで、この山蔭中納言政朝なるお公卿さんについては、総持寺側におもしろい寺伝が
残っている。仁明天皇の承和年間、越前守藤原高房は、大宰大貮に任ぜられ、筑前へ
くだる途上、淀の穂積の橋ぎわで一匹の大亀を助けた。・・・
と個人的にはメチャ面白い話を紹介していたね(-ω-、) そして、流石は我らが苑子タンと言うべきか、
──ところで私は、あまりにうまく出来すぎている〝縁起〟に小意地わるい疑いをおこし、
山蔭中納言政朝なる人物がはたして本当に実在していたかどうか、たしかめてみたくなった。
で、尊卑分脈をひっくり返してみたところが、たしかに藤原の北家に、中納言亮高房という
人はいた。参議藤嗣の次男で、治績も多い。そして、この高房に男児が七人いるのだが、
政朝という名は見あたらない。朝行というのが三男にい、六男坊に山蔭という息子がいる。
民部卿にすすみ中納言に任ぜられ、仁和四年、六十五歳で薨じているところをみると、
この人が縁起の中のヒーローらしい。つまり〝山蔭〟は姓ではなく、彼の場合、
名なのである。/しかも、なお見てゆくうちに、訝[おか]しなことを発見した。
山蔭の息子も七人いるのだが、その末ッ子の「如無」という人物に傍注がつけられ、
「入海乗亀児也。大僧都。名人」となっている。この記載が正しければ、大僧都如無こそは
亀に助けられた子供であり、〝名人〟の二字が料理の腕前をさすのなら、庖丁の元祖も
とりもなおさず、彼ということになる。
この件を読んで、「百目鬼恭三郎と似たようなこと、杉本苑子が今回してて、興味深かった(^^)」と
コメント( https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-02-11 )したんだよね(-ω-、)
ところが、馬淵和夫&国東文麿&稲垣泰一(校注・訳)『新編日本古典文学全集36 今昔物語集②』
(小学館,2000)の巻第十九に「亀報山陰中納言恩語第二十九」(549~553頁)があったぞ( ̄◇ ̄;)
長い説話だし、本書と密接に関連する末尾の一文(553頁)の現代語訳だけメモっておくよ(´ヘ`;)
この山陰中納言は摂津国に総持寺という寺を建てた人である、とこう語り伝えている
ということだ。
しかも、同書巻末の「出典・関連資料一覧」を見ると、この説話の同話・関連資料として、『十訓抄』、
『源平盛衰記』、『沙石集(拾遺)』など7文献が挙げられてるじゃん(610~611頁)((;゚Д゚)ヒィィィ!
そこで、手元にある浅見和彦(校注・訳)『新編 日本古典文学全集51 十訓抄』(小学館,1997)からは
上の一ノ五の現代語訳を引く(-ω-、)
我が日本でも、山陰中納言が筑紫に下向なさる途中、鵜飼が殺そうとしていた亀を
買い取って、逃がしておやりになった。その時は二歳ほどであった若君を、
同道なさっていらっしゃったが、継母と乳母とは一緒になって、若君を偶然、
取り落としてしまったかのようにして、海の中に落し入れてしまった。
父の中納言は茫然とされていたが、その時、助けてやった亀が、若君を甲羅の上に
乗せて、舟のへりの所に置いていったのだった。ただちに助け上げたのは
いうまでもない。/このことは如無僧都の話として、誰でも知っている話であるから、
詳しく書く必要はなかろう。
その頭注の解説に「山陰中納言の物語は諸書に引かれ、報恩譚としてもっともポピュラーな話であった
ようだ。『山陰中納言物語』という物語も鎌倉時代あたりまでは伝えられていたらしい。」とあるし、
同書巻末の「関係類話一覧」には、類話・関連記事として上記の『今昔物語集』の他に、『宝物集』、
『発心集』など10も文献が挙げられていて、その中には『平家物語』まで∑( ̄ロ ̄|||)にゃんと!?
杉本圭三郎『平家物語(六)』(講談社学術文庫,1984)の「祗園女御」を披いたら出てたよ(-ω-、)
苑子タン、教養が無さすぎ! もっと調べてから書けよヾ(`◇´)ノヾ( ̄o ̄;)オイオイお前は言えないだろ!
「億劫」を『大辞林』初版第一刷で引いたら、用例に「こたつに入ると、仕事をするのが──になる」と
あって、ちょっと笑った(^_^;) でも、「こたつに入」れる職場って、どんな「仕事」なんだろう(^_^;)
【読んだ本】
杉本苑子『西国巡拝記』(中公文庫,1980)所蔵本
本書の「第二十二番 総持寺」で、「この寺の開創者、山蔭中納言政朝が、日本庖丁の元祖といわれる
料理の神サマ・・・」云々などと、苑子タンは記した後、
ところで、この山蔭中納言政朝なるお公卿さんについては、総持寺側におもしろい寺伝が
残っている。仁明天皇の承和年間、越前守藤原高房は、大宰大貮に任ぜられ、筑前へ
くだる途上、淀の穂積の橋ぎわで一匹の大亀を助けた。・・・
と個人的にはメチャ面白い話を紹介していたね(-ω-、) そして、流石は我らが苑子タンと言うべきか、
──ところで私は、あまりにうまく出来すぎている〝縁起〟に小意地わるい疑いをおこし、
山蔭中納言政朝なる人物がはたして本当に実在していたかどうか、たしかめてみたくなった。
で、尊卑分脈をひっくり返してみたところが、たしかに藤原の北家に、中納言亮高房という
人はいた。参議藤嗣の次男で、治績も多い。そして、この高房に男児が七人いるのだが、
政朝という名は見あたらない。朝行というのが三男にい、六男坊に山蔭という息子がいる。
民部卿にすすみ中納言に任ぜられ、仁和四年、六十五歳で薨じているところをみると、
この人が縁起の中のヒーローらしい。つまり〝山蔭〟は姓ではなく、彼の場合、
名なのである。/しかも、なお見てゆくうちに、訝[おか]しなことを発見した。
山蔭の息子も七人いるのだが、その末ッ子の「如無」という人物に傍注がつけられ、
「入海乗亀児也。大僧都。名人」となっている。この記載が正しければ、大僧都如無こそは
亀に助けられた子供であり、〝名人〟の二字が料理の腕前をさすのなら、庖丁の元祖も
とりもなおさず、彼ということになる。
この件を読んで、「百目鬼恭三郎と似たようなこと、杉本苑子が今回してて、興味深かった(^^)」と
コメント( https://yomubeshi-yomubeshi.blog.so-net.ne.jp/2018-02-11 )したんだよね(-ω-、)
ところが、馬淵和夫&国東文麿&稲垣泰一(校注・訳)『新編日本古典文学全集36 今昔物語集②』
(小学館,2000)の巻第十九に「亀報山陰中納言恩語第二十九」(549~553頁)があったぞ( ̄◇ ̄;)
長い説話だし、本書と密接に関連する末尾の一文(553頁)の現代語訳だけメモっておくよ(´ヘ`;)
この山陰中納言は摂津国に総持寺という寺を建てた人である、とこう語り伝えている
ということだ。
しかも、同書巻末の「出典・関連資料一覧」を見ると、この説話の同話・関連資料として、『十訓抄』、
『源平盛衰記』、『沙石集(拾遺)』など7文献が挙げられてるじゃん(610~611頁)((;゚Д゚)ヒィィィ!
そこで、手元にある浅見和彦(校注・訳)『新編 日本古典文学全集51 十訓抄』(小学館,1997)からは
上の一ノ五の現代語訳を引く(-ω-、)
我が日本でも、山陰中納言が筑紫に下向なさる途中、鵜飼が殺そうとしていた亀を
買い取って、逃がしておやりになった。その時は二歳ほどであった若君を、
同道なさっていらっしゃったが、継母と乳母とは一緒になって、若君を偶然、
取り落としてしまったかのようにして、海の中に落し入れてしまった。
父の中納言は茫然とされていたが、その時、助けてやった亀が、若君を甲羅の上に
乗せて、舟のへりの所に置いていったのだった。ただちに助け上げたのは
いうまでもない。/このことは如無僧都の話として、誰でも知っている話であるから、
詳しく書く必要はなかろう。
その頭注の解説に「山陰中納言の物語は諸書に引かれ、報恩譚としてもっともポピュラーな話であった
ようだ。『山陰中納言物語』という物語も鎌倉時代あたりまでは伝えられていたらしい。」とあるし、
同書巻末の「関係類話一覧」には、類話・関連記事として上記の『今昔物語集』の他に、『宝物集』、
『発心集』など10も文献が挙げられていて、その中には『平家物語』まで∑( ̄ロ ̄|||)にゃんと!?
杉本圭三郎『平家物語(六)』(講談社学術文庫,1984)の「祗園女御」を披いたら出てたよ(-ω-、)
苑子タン、教養が無さすぎ! もっと調べてから書けよヾ(`◇´)ノヾ( ̄o ̄;)オイオイお前は言えないだろ!