「奨学金地獄」などと言われてるのに「授業料を全額免除する奨学金を受けるという」のは、たしかに
「国民から広く祝福される状態にない」でしょうねぇと朝日朝刊を読んで思う(@_@;) なお、小生は
成績が良くなかったので一度も受けたことないもんねv( ̄∇ ̄)エヘンヾ( ̄o ̄;)オイオイ威張れることかよ!
全てのクッキーを削除したために、色んなサイトで改めてログインし直す破目となり、某サイトでは
秘密の質問として「初めてみた映画は?」と訊かれたけど、老化が進んで素で思い出せない(ノ_-;)ハア…
明朝に最接近する台風よりも、通過後の明日の予想最高気温が34度の方がイヤなんですけど(´ヘ`;)

【読んだ本】

紀田順一郎『にっぽん快人物烈伝』(旺文社文庫,1985)所蔵本

「学者・教育家」の1人目、副題は「微生物の狩人」で、北里柴三郎(^^) 柴犬の名に使われてそう^_^;

    ツベルクリンの発表[小川鼎三『医学の歴史』[中公新書,1964]だと1890年か]は、
    世界の学界をおどろかせた。文部省も、在欧中の東大教授宇野朗[ほがら]、佐々木
    政吉、助教授山極勝三郎の三人に訓令して、その技術を習おうとした。三人がコッホに
    面会すると、コッホは、「日本政府は私のもとに北里がいるということを、忘れている
    のではありませんか」といった。のちにコッホが北里を呼んで、この話をすると、
    「きっと私は、文部省に信用がないからでしょうよ」

この逸話は有名な事件への序章かしらね(@_@;) 常石敬一「伝染病研究所移管事件――北里柴三郎」
『科学朝日』編『スキャンダルの科学史』(朝日選書,1997)から引いておきますか_φ( ̄^ ̄ )メモメモ

    一九一四(大正三)年一〇月、日本が第一次世界大戦に参戦してから二カ月後、
    世にいう「伝研移管騒動」が起こった。伝研とは伝染病研究所のことで、現在の
    東京大学医科学研究所である。大隈内閣は今の言葉でいう行財政改革のためとして、
    伝研の所管を内務省から文部省に移すことを決定した。伝研は北里柴三郎にとって、
    その辞職理由で述べるように「二十有余年辛苦経営して建てた所の研究所=我城」
    であった。/北里は伝研所長の職を辞し、北里研究所を創設した。文部省の慰留工作
    にもかかわらず、所員の大部分が伝研から北里研究所に移った。北里と東大
    (東京帝大)とは、かつて彼が東大教授、緒方正規の脚気菌を批判して以来
    二五年にわたる対立があり、世論は東大による北里の牙城・伝研の乗っ取りと
    はやしたてた。東大の医科大学(現在の東大医学部にあたる。・・・)学長、
    青山胤通が大隈と親しかったことが余計世論の反発をかった。

北里柴三郎の業績や伝研騒動など青山胤道(ママ)との対立も描いた伊藤智義(作)&森田信吾(画)
『栄光なき天才たち④』(集英社ヤングジャンプ・コミックス,1989)は、「世界初・人工ガンの発生
に成功した科学者」として山極勝三郎の話(第22話)も収録し、カヴァー袖には「未開の分野を進む、
開拓者的作品です! 荒木飛呂彦(漫画家)」として、若~い頃の顔写真&長文コメント掲載(^_^;)

話を本書に戻すと、本についてのブログだから、やっぱり次の逸話をメモっておきたいな(〃'∇'〃)

    明治・大正時代の政治家で、趣味人、食通として知られた木下謙二郎は、その著
    『美味求真』を出版するとき、北里に見せた。/北里は「どうかぼくに序文を
    書かせてもらいたい。ぼくは門下の者に頼まれても、序文なんかいっさい書かないが、
    きみの本にはぼくのほうから頼む」といい、りっぱな序文を書き、さらに徳富蘇峰らの
    批評を見て、「みんなお座なりだ。この本の知己はおれだけだよ」と自慢した。
 
「この本の知己はおれだけだよ」と言える本あるかしら(@_@;) 「お座なり」の書評はよく見るが^_^;

降ったけど弱かったし何度か陽も差したから昨日ほど涼しくなかった(-ω-、) アートの本を注文(^^)v