先日ヤモリさんが書斎の網戸にはり付いていたので、我が家を守ってくれてるのは有難いけど、お外で
お願いね、と丁重に出て行ってもらったのに、先ほど網戸の内側にフンが付いてるのを発見した(^_^;)
ネコさんも通る度に玄関ドアにオシッコをかけてくけど、みんな、自分の家だと思ってるのかしら^_^;

【読んだ本】

荒川秀俊『お天気日本史』(河出文庫,1988)所蔵本

気象庁で要職を歴任し、日本を代表する気象学者だった荒川秀俊の好著を久しぶりに披くと、ある話に
掲載されてる天気図4枚に目が留まった(^^) 「第16図 明治38年5月27日 14時」「第17図 明治38年5月
27日 22時」「第18図 明治38年5月28日 6時」「第19図 明治38年5月28日 14時」で、本文を引く(^^)

    二十七日午後から二十八日までの天気図を示しておこう(第16、17、18、19図)。これに
    よると、空は晴れ、朝からの強風もおさまり、静穏に向かいつつある状態が手にとるように
    わかる。/日本艦隊にとって、低気圧通過後の二十七日に会戦を行なうことができたのは
    大変な幸運だった。もし二十六日に会戦があったなら、天気晴朗どころか、雨中で展望は
    まったくきかず、ロシア艦隊を北方に逃がしたかもしれない。二十八日に戦いが行なわれた
    のなら、空は晴れあがり風波も、大分おさまっていたから、ロシア軍の士気もちがっていた
    だろう。

「天気図」から日露戦争の日本海海戦勝利には「大変な幸運」もあったと指摘する知的面白さ(〃'∇'〃)

この日本海海戦が、その後の帝国海軍に与えた影響を、戸部良一&寺本義也&鎌田伸一&杉之尾孝生&
村井友秀&野中郁次郎『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(中公文庫,1991)は次の如く論じる(^^)

    この海戦の勝利は、当然のことながら日本海軍の戦略原型に大きな影響を及ぼさずには
    おかなかった。すなわち、海軍作戦の真髄は艦隊決戦にあり、艦隊決戦に勝利を得れば、
    戦争そのものの帰趨にも決定的な影響が与えられるという、艦隊決戦主義の誕生であった。
    /そして、日本海海戦以後の帝国海軍の仮想敵が米国海軍となっても、対米戦争では
    日本海海戦の艦隊決戦を再現することによって勝利を得ることができる、という考え方を
    強化させていったのである。

要するに、日本海海戦で日露戦争に勝利したことに味を占め、以後はひたすら艦隊決戦主義を墨守する
こととなり、それが失敗=敗戦に繋がったとして同書の「文庫版あとがき」は次のように結論(⌒~⌒)

    われわれにとっての日本軍の失敗の本質とは、組織としての日本軍が、環境の変化に
    合わせて自らの戦略や組織を主体的に変革することができなかったということにほか
    ならない。・・・/それでは、なぜ日本軍は、組織としての環境適応に失敗したのか。
    逆説的ではあるが、その原因の一つは、過去の成功への「過剰適応」があげられる。
    過剰適応は、適応能力を締め出すのである。近代史に遅れて登場したわが国は、日露
    戦争(一九〇四~五)をなんとか切り抜けることによって、国際社会の主要メンバーの
    一つとして認知されるに至った。が同時に日露戦争は、帝国陸海軍が、それぞれ
    「白兵銃剣主義」、「艦隊決戦主義」というパラダイムを確立するきっかけともなった。
    その後、第一次世界大戦という近代戦に直接的な関わりを持たなかったこともあって、
    これらのパラダイムは、帝国陸海軍によって過剰学習されることになったのである。

走って来たウサギが切り株に衝突して死んだのを見た農民が、仕事を捨てて毎日切り株を見張ったけど、
ウサギが再び獲れることは無かったという「守株」の故事(韓非子)を連想しちゃうな(^_^;) そもそも
勝利できたのは「大変な幸運」にすぎなかったのを、パラダイム化しちゃうのはおかしいよね(-ω-、)

さて、昨日の朝日新聞朝刊に山岸玲という記者が「台風12号は本州付近を東から西へ横断する見通しで、
記録に残る1951年以降、初めての経路。」と書いてた(゚ロ゚;) 気象庁出身で有名な気象学者である
大谷東平の『台風の話』(岩波新書,1955)には、同様の「異常進路」をとった台風は、明治42年7月末
~8月初、大正5年7月、大正5年8月、大正13年8月、昭和5年7月末~8月初の計「五回の記録があ」ると
出てることを昨日は指摘ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ!バカチンガァ!! 上記の通り、荒川秀俊が明治38年の天気図をも
示していることからも、やはり「記録」はあった、と考えるのが合理的ではないですかねv( ̄∇ ̄)ニヤッ

ところが、今朝の朝日新聞の朝刊一面の「逆走台風、西日本横断へ」という記事の冒頭、件の山岸玲は、

    強い台風12号は、東から西へ列島を横切る観測史上初めてのコースを進む見通しで、
    28日は東海地方に迫った。・・・

今度は「観測史上初めて」だってさヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 気象庁のHPに出てるけど、気象観測が始まったのは
1875年(明治8年)6月5日で、荒川秀俊の本書によると、

    ・・・初めて天気図を刊行したのが明治十六年であるから、列国に比して十年そこそこ
    しか遅れていなかったのである。/天気図が毎日スピーディーにでき上がり、実用化
    されたのは、さきに述べたように電信機による通信ができるようになったからである。
    その後、マルコニーによって一八九七年無線通信が発明されると、気象事業はまた一段と
    飛躍した。無線電信が発明されると、海上を航行している船舶から気象の実況を集める
    ことができるようになったから、いままで地方の気象台や測候所から気象の実況を集める
    だけで、陸上の天気図しか描けなかったものが、一挙に海面を含めた天気図が描けるよう
    になった。このため一九〇四、五年頃から、天気図もだんだん正確に描けるようになり、
    海上を航行する船舶に対する天気予報や暴風警報が、段ちがいに信頼度が高まった上、
    天気予報や暴風警報を船舶に直接知らせてやることができるようになった。

ちなみに、日本海海戦は1905年なんだけど、このように天気図が描けて天気予報も行なっていた以上は、
「記録」もあったと考えるのが合理的じゃん(⌒~⌒) なのに「観測史上初めて」などと言い張るのは、
大谷東平が列挙した「五回の記録」には、予報がハズれて罹災者を多く出したとか、気象庁にとっての
〈黒歴史〉が含まれているために、その存在を頑なに否定しているのではないかしらね( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
あるいは気象庁が来年度予算を増額要求するための地均し的なアナウンスだったりしてC= (-。- ) フゥー
以上は邪推だけど、善意に解すれば、今回の台風に対する警戒を促すために嘘をついた、のかも(^_^;) 

それにしても山岸玲という記者は気象庁を担当するには不勉強かつセンスが無いとしか思えないけど、
「逆走台風」と表現した点は良かった(^_^;) 現時点で、台風12号は「迷走台風」じゃねーから(^_^;)

涼しかったのは早朝だけで午前中ぐんぐん暑くなる一方でにわか雨も、図書館&ブックオフ行けず(+_+)