クリスマスローズの鉢、蕾が今は5つだけど、2月末になれば、この数倍の数は花が咲くんだお(^o^)丿
クリスマスに咲かないの?この花のどこがローズ?と思ってたことはナイショだよ(〃'∇'〃)テヘペロ
昨日より気温は低かったけれど、今日は陽射しがあったから、暖かく感じられ過ごしやすかった(^^)
【読んだ本】
さくら咲く 比良の山風 吹くまゝに 花になりゆく 志賀の浦波
千載和歌集の歌番号89の藤原良経の歌だけど、下句「花になりゆく志賀の浦波」をどう解すべきか(@_@)
久保田淳(校注)『千載和歌集』(岩波文庫,1986)の脚注は、
花片が一面琵琶湖に散り敷くさま。・・・
片野達郎&松野陽一(校注)『新 日本古典文学大系 千載和歌集』(岩波書店,1993)の脚注も、
湖面に花吹雪が散り敷くさま。
とした上で、次のように同歌を訳し、
桜咲く比良の峰々を山嵐が吹きおろすと、やがて志賀の浦波も花の白波となっていくよ。
次のような解説を加えている(@_@)
比良の山より吹きおろす落花。たちまちに湖面を彩る花また花。
大景の中、寄せては返す花の波に、しばしは行く春を忘るるの風情。
「春歌下」の巻に入ってるし、前後も落花の歌で占められていること、更に「比良」と言えば、
片桐洋一『歌枕 歌ことば辞典 増訂版』(笠間書院,1999)の「ひら【比良】」の項にも、
比叡山の北に連なる連山。北からこの山を越して琵琶湖に吹きつける風の激しさは
有名で、・・・
とあるから、〈比良の山からの強風で散った桜の花片が敷き詰められた湖面〉を詠んだ歌と理解でき、
以上の解釈には一分の隙も無いようにも思われる(@_@;)
ところが、『歌枕 歌ことば辞典 増訂版』の「ひら【比良】」の項は同歌に言及し脚注に斯く記す(@_@)
「花になりゆく志賀の浦波」は風によって立った白浪が花のように見える
と言っているのである。
「なみのはな【浪花】」=「浪が白く立つのを花が白く咲くのに見立てた表現。」と解したわけだ(@_@)
湖面に散り敷かれた花片か、それとも風で浪立ったのを花に見立てたのか、どちらなのかしら(@_@;)
今日もサボりのダメ人間(+_+)
[追記180121]
千載集の歌としては前者(湖面に散り敷かれた花片)が正しい解釈だろうが、何故か魅かれぬ小生(..)
勅撰集に撰ばれているように良い歌なのは間違いないのに何故だろうかと思案してたら分かったぞ^_^;
何のことはない、湖面に散り敷かれた花片を詠んだ、もっと素晴しい秀歌を知ってたからだった(^_^;)
宮内卿の新古今集の歌番号128がソレ(^^)
花さそふ 比良の山風 吹きにけり 漕ぎゆく舟の 跡見ゆるまで
久保田淳(校注)『新潮日本古典集成 新古今和歌集』上(新潮社,1979)の現代語訳だと、
花を誘って散らせる比良の山風が吹いたのですね。漕いでゆく船の跡が
くっきり見えるほどに、湖一面に花片が散っています。
窪田空穂『完本新古今和歌集評釈』上巻(東京堂出版,1964)の【評】は、
湖上を花が埋めていることは直写せず、「漕ぎゆく舟の跡見ゆるまで」
という語句をもって暗示しているのは、例の余情を欲する心からである。
とあるように、ココが千載集の藤原良経の当該歌よりも巧いかなと思うわけですよ(^_^;)
しかも、久保田淳『新古今和歌集全注釈 一』(角川学芸出版,2011)が「漕ぎゆく舟の跡」の語釈で、
(湖面)を漕いでゆく船の航跡。・・・これはすぐ消えるもの、なくなるもの
というのが常識[←窪田も指摘するように小舟を暗示してるのだから尚更そう]で、
「跡見ゆるまで」は、常識の裏をかいた表現である。
と指摘してる点もポイント高い(^^) 素人目には百人一首に入ってないのが不思議なほどの秀歌(^_^;)
千載集の藤原良経の当該歌を意識したか、と新古今集の各注釈書の多くが指摘してたことに気付くorz
クリスマスに咲かないの?この花のどこがローズ?と思ってたことはナイショだよ(〃'∇'〃)テヘペロ
昨日より気温は低かったけれど、今日は陽射しがあったから、暖かく感じられ過ごしやすかった(^^)
【読んだ本】
さくら咲く 比良の山風 吹くまゝに 花になりゆく 志賀の浦波
千載和歌集の歌番号89の藤原良経の歌だけど、下句「花になりゆく志賀の浦波」をどう解すべきか(@_@)
久保田淳(校注)『千載和歌集』(岩波文庫,1986)の脚注は、
花片が一面琵琶湖に散り敷くさま。・・・
片野達郎&松野陽一(校注)『新 日本古典文学大系 千載和歌集』(岩波書店,1993)の脚注も、
湖面に花吹雪が散り敷くさま。
とした上で、次のように同歌を訳し、
桜咲く比良の峰々を山嵐が吹きおろすと、やがて志賀の浦波も花の白波となっていくよ。
次のような解説を加えている(@_@)
比良の山より吹きおろす落花。たちまちに湖面を彩る花また花。
大景の中、寄せては返す花の波に、しばしは行く春を忘るるの風情。
「春歌下」の巻に入ってるし、前後も落花の歌で占められていること、更に「比良」と言えば、
片桐洋一『歌枕 歌ことば辞典 増訂版』(笠間書院,1999)の「ひら【比良】」の項にも、
比叡山の北に連なる連山。北からこの山を越して琵琶湖に吹きつける風の激しさは
有名で、・・・
とあるから、〈比良の山からの強風で散った桜の花片が敷き詰められた湖面〉を詠んだ歌と理解でき、
以上の解釈には一分の隙も無いようにも思われる(@_@;)
ところが、『歌枕 歌ことば辞典 増訂版』の「ひら【比良】」の項は同歌に言及し脚注に斯く記す(@_@)
「花になりゆく志賀の浦波」は風によって立った白浪が花のように見える
と言っているのである。
「なみのはな【浪花】」=「浪が白く立つのを花が白く咲くのに見立てた表現。」と解したわけだ(@_@)
湖面に散り敷かれた花片か、それとも風で浪立ったのを花に見立てたのか、どちらなのかしら(@_@;)
今日もサボりのダメ人間(+_+)
[追記180121]
千載集の歌としては前者(湖面に散り敷かれた花片)が正しい解釈だろうが、何故か魅かれぬ小生(..)
勅撰集に撰ばれているように良い歌なのは間違いないのに何故だろうかと思案してたら分かったぞ^_^;
何のことはない、湖面に散り敷かれた花片を詠んだ、もっと素晴しい秀歌を知ってたからだった(^_^;)
宮内卿の新古今集の歌番号128がソレ(^^)
花さそふ 比良の山風 吹きにけり 漕ぎゆく舟の 跡見ゆるまで
久保田淳(校注)『新潮日本古典集成 新古今和歌集』上(新潮社,1979)の現代語訳だと、
花を誘って散らせる比良の山風が吹いたのですね。漕いでゆく船の跡が
くっきり見えるほどに、湖一面に花片が散っています。
窪田空穂『完本新古今和歌集評釈』上巻(東京堂出版,1964)の【評】は、
湖上を花が埋めていることは直写せず、「漕ぎゆく舟の跡見ゆるまで」
という語句をもって暗示しているのは、例の余情を欲する心からである。
とあるように、ココが千載集の藤原良経の当該歌よりも巧いかなと思うわけですよ(^_^;)
しかも、久保田淳『新古今和歌集全注釈 一』(角川学芸出版,2011)が「漕ぎゆく舟の跡」の語釈で、
(湖面)を漕いでゆく船の航跡。・・・これはすぐ消えるもの、なくなるもの
というのが常識[←窪田も指摘するように小舟を暗示してるのだから尚更そう]で、
「跡見ゆるまで」は、常識の裏をかいた表現である。
と指摘してる点もポイント高い(^^) 素人目には百人一首に入ってないのが不思議なほどの秀歌(^_^;)
千載集の藤原良経の当該歌を意識したか、と新古今集の各注釈書の多くが指摘してたことに気付くorz