図書紹介が巧いと紹介されてる本も読んだ気になってしまい読まずじまいに・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;ヨメヨ!

【読んだ本】

小林信彦『本は寝ころんで』(文春文庫,1997)所蔵本

昨日本書から引用するため本棚の天井近い最上段から取り出し、折角なので久しぶりに読んだけど、
とりわけ週刊文春に連載されていた「第Ⅱ部 読書日記」は何度読んでも面白いしタメになる(^_^;)
瀬戸川猛資『夢想の研究──活字と映像の想像力』(早川書房,1993)を取り上げた件の一部を引く
(傍点は省略)(^_^;)

    ・・・/著者は現代日本における〈一般の教養の欠如〉におどろく。「インドへの道」
    という映画が公開されたとき、〈いま、なぜインドなのか?〉と皮肉ったバカ映画評論家
    がいたという。ぼくならば、バカはバカだから──と片づけてしまうが、著者は原作者の
    E・M・フォースターやデヴィッド・リーンの在り方について、ゆっくりと説得してゆく。
    そして、映画評論家と称する者が専門領域内でも不案内であることを明らかにする。/
    ・・・/・・・/漱石の「吾輩は猫である」の終り近くで、一つの〈詐欺師小説〉が
    語られる。この小説がロバート・バーの「放心家組合」であることを山田風太郎氏が
    一九七一年に指摘しているというのである。──つまり、「猫」を読んだ文学好きは
    大勢おり、「放心家組合」を読んだミステリ・ファンは〈少なく見つもっても五万人
    ぐらい〉いるのに、このことに気づいたのは山田風太郎氏が初めてという奇妙な事実だ。
    /瀬戸川氏の〈夢想〉は、漱石がこの小説をいつ読んだのか、という推理に移ってゆく
    のだが、その面白さを伝えるには、紙数が尽きた。/この本は、寝る前に一章ずつ読むと
    よい。まとめて読むと、目が点になってくる。
                                 (1993・3/18号)

小林信彦も映画ライターの不勉強ぶりを本書に限らずよく具体的に指摘してるけど、「映画評論家と
称する者が専門領域内でも不案内であること」が昨日の浅田彰&高橋源一郎の対談での指摘に繋がる
のかしら(@_@;) ポーリン・ケイルの映画批評のような「この映画は大体こういうストーリーで、
どこが良くて、どこが悪くて、映画史的にはこういうふうに位置づけられると、それなりのページ数
の中できっちりと書いている」「普通の映画批評」(浅田)がまずあるべきなのに無い、と(@_@;)
「放心家組合」の件だけど、「ミステリ・ファン」は「猫」を読まないということなのかな(@_@;)
wikiの「吾輩は猫である」の項に〈最終回で、迷亭が苦沙弥らに「詐欺師の小説」を披露するが、こ
れはロバート・バーの『放心家組合』のことである。この事実は、大蔵省の機関誌『ファイナンス』
1966年4月号において、林修三によって初めて指摘された。同様の指摘は、1971年2月号の文藝春秋誌
上で山田風太郎によっても行われている。〉と記されてて、林修三はやはり凄いと改めて敬服(゚o゚;)