客観的には敗軍の将なのに本人は勝ったつもりだったっぽい足利尊氏か〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
自分の置かれている状況を直視・理解・受容するのは難しいことだけど、流石にちょっとねぇ(^_^;)

【読んだ本】

鈴木健一『天皇と和歌 国見と儀礼の一五〇〇年』(講談社選書メチエ,2017)

後鳥羽院の歌「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き浪風心して吹け」についての本書88~90頁(@_@;)

    ・・・/この歌から読み取れる後鳥羽上皇の態度としては、二つの解釈がある。/
    一つの解釈としては、丸谷才一氏が、/・・・/と述べているように、〈自分は
    手ごわいぞと治天の君として命令する〉というものである。たしかに、政治的にも
    文学的にも、その他のあらゆる点においても、頂点に立ちたいと願う帝王という
    人物像からすれば、配流された地においても、そこを支配するべく海に対して
    〈命令〉するというのもうなずける。また、「我こそは」の歌には、海を見晴るかす
    という点で、「見渡せば」の歌と同様に国見の要素も込められているし、この堂々と
    した歌いぶりは帝王にふさわしいと言えるかもしれない。/ただし、[この歌も入る]
    「遠島御百首」には右の解釈にそぐうような、勢い込んだ内容の歌はほとんどなく、
    全体としては、悲歌・絶望・怨恨といった風情で貫かれている。/そうした観点によって、
    「我こそは」の歌は、丸谷氏のような〈命令〉ではなく、むしろ〈懇願・哀願〉では
    ないかとする説もある。すなわち、〈この地にまだ自分は慣れていないのだから、
    よく気を付けて吹いておくれと懇願する〉というのである。近年では、こちらが定説と
    なっている。/後鳥羽上皇は、歴代天皇の中でも特別に強烈な個性を持ち、和歌にも
    情熱を注ぎ、『新古今集』編纂にも積極的に関与したわけだが、だからといって、
    すべての歌が強気一辺倒であるはずもない。先入観を持たずに、丁寧に当時の状況や
    歌の内容を汲み取る必要がある。/それに〈懇願・哀願〉と捉えたとしても、帝王ぶり
    自体はこの歌から感じ取れると思う。「我こそは」で始まり、「心して吹け」で終わる
    一首のありかたからは、全体として堂々とした風格が認められるだろう。また、国見
    という要素は揺るがない。/・・・

井上宗雄(全訳注)『増鏡(上)』(講談社学術文庫,1979)が丸谷才一の解釈(丸谷は「この和歌の
従来の解釈が誤りである」(同『後鳥羽院 第二版』[ちくま学芸文庫,2013])と大見得を切るも、
井上が「丸谷説には先蹤がある」として小島吉雄『新古今集講話』[昭和18年]の説を紹介は痛烈)
は成り立たないことを論点ごとに簡潔に論証していたので、本書の上記件も特に何とも思わず読んで
いたけど、最後の部分には首を傾げた(^_^;) 〈懇願・哀願〉なのに「帝王ぶり」「堂々とした風格」
というのは理解に苦しむね(^_^;) 鈴木健一は本書のテーマである「国見という要素」を見出したいが
ために、無理矢理そう「感じ取」ってないか(^_^;) そもそも後鳥羽院の「当時の状況」は隠岐に配流
された身ゆえ「国」の支配者ではなく、「国見」の意識があったとするのはヤバい人扱いかと(^_^;)