読書の厄介なところは、「途中で或る女人に逢った」が誰か気になることである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)

【読んだ本】

倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成「権記」(中)』(講談社学術文庫,2012)

「全」文が「現代語訳」されてても、解らない箇所があるわけで、注釈付きのが読みたいよ(-ω-、)
仕方がないので、気になる件があったりすると、関連する本をも読んで調べるわけだけど、例えば、
藤原行成の日記『権記』の長保3年(1001年)8月12日条を本書122頁から〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

     十二日、辛亥。 殿上盃酒

    殿上間において盃酒の饗宴が行なわれた。人は多く酩酊した。左源亜将(経房)は
    淵酔した。晩方、右中弁(源道方)と退出した。閑院([藤原]公季)に参った。
    月に乗って帰ってきた。

末尾の「月に乗りて、帰り畢んぬ」(国際日本文化研究センターの「摂関期古記録データベース」の
訓読文)が気になる(@_@;) 黒板伸夫(日本歴史学会編集)『藤原行成』(吉川弘文館人物叢書,
1994新装版)130頁には次のようにある(@_@;)

    ・・・/十二日、殿上で侍臣たちの私的な酒宴があり、酩酊するもの多く、なかでも
    左源亜相(相は将の誤り)はしたたかに酔いつぶれている。左源亜将は左中将源経房
    のことであろう。行成も日が暮れてから右中弁源道方と共に退出したが、「月に乗じて
    帰り畢[おわ]んぬ」とある『権記』の筆致には、不安な世相にふさわしくなく、
    どこか浮き浮きとした気分が漂っているような気がする。/二十三日から二十五日に
    かけて除目が行われたが、行成は参議に任ぜられた。「年三十、蔵人頭七年、大弁四年」
    と『権記』[長保3年(1001年)8月25日条]は記すが、満で数えても六年の蔵人頭の
    激務は省みて感慨深いものであったと思う。参議任官は藤原公任二十七、同斉信三十、
    源俊賢三十七、藤原実資は三十三であり、彼の家柄からみて、妥当なところであろう。
    なお行成の昇任に伴って蔵人頭になったのは左中将経房であり、思えば十二日の心浮いた
    小宴は、これらの人事の前祝だったかもしれない。/・・・

ナルホドとは思うけどさ、「月に乗りて、帰り畢んぬ」は漢詩文か何かの典拠があるのかないのか、
あるならソレが何か知りたいんじゃヾ(`◇´)ノ 漢詩文からのフレーズが『権記』には時々ある(^^)
島田良二「八代集における月について」(森本元子編『和歌文学新論』[明治書院,1982]所収)は
『万葉集』においては、〈また月を「船」に見立てて「月の船」と表現する。大空を海にたとえての
発想である。天の川を舟で渡るのも同じ発想である。〉と指摘してたな〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

     五日、癸酉。 女人に逢う

    女院(藤原詮子)の許に参った。弁内侍に逢った。仰せを伝える事が有った。弾正宮
    (為尊親王)の許に参った。左府[藤原道長]の許に参った。右将軍(藤原実資)の
    御許に参った。帰宅した。途中で或る女人[にょにん]に逢った。新中将(藤原成房)
    と逢った。深夜に帰去した。

本書127頁の長保3年(1001年)9月5日条の「中途に或る女人に相逢ふ」の「女人」とは誰よ(¬。¬ )
バカチン歴史家が同条から藤原行成は清少納言と逢引してた!などと言い出してそうヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ