事実はSF小説より奇なりキタ━━━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━━━!!!! キタヨキタヨヽ(゚∀゚=゚∀゚)ノキチャッタヨ-!!!!
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【読んだ本】
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書,2020)
読了(^o^)丿 本能寺の変、そして、山崎の戦いの後、織田家の宿老4人が尾張清須城に集まって信長・
信忠父子の後継者を誰にするか話し合われたとされる清須会議は、二次史料(軍記物語、家譜、系図
といった後世になって編纂されたもの)に依拠して描かれてきたが、より史料的価値が高いとされる
一次史料(同時代に作成された書状、日記)によって、その真相を探るとともに、良質な先行研究や
一次史料に基づいて秀吉の天下取りの道程を描き出そうとする本書(^^) 細目次は省略するけど、
はじめに
序章 清須会議への道のり──信長の死と後継者問題
第一章 従来説に見る清須会議の展開
第二章 清須会議の真相と新たな政治体制
第三章 清須会議後の争乱──賤ヶ岳の戦い
第四章 徳川家康の屈服──小牧・長久手の戦い
第五章 関白就任と家康の従属
第六章 豊臣政権の確立
おわりに
主要参考文献
という構成で、書名は何なんだと思わないでもないが、書状や日記から引いてきた、通史的な歴史書
には出て来ないような細か~い出来事(竹ヶ鼻城を水攻めした様子等)を散りばめつつ、秀吉による
天下統一までを描き、初見の話も結構あるし、また清須会議に対する認識を改めたところも(⌒~⌒)
小牧・長久手の戦い後、いったん和睦するも、再び対立して、秀吉は家康を討伐しようとしたけど、
「天正の大地震」が発生したために、家康は命拾いしたという話、平山優『武田遺領をめぐる動乱と
秀吉の野望 天正壬午の乱から小田原合戦まで』(戎光祥出版,2011)でも読んだ記憶が(@_@;) もし
記憶違いだったら、ごめんなさいm(__)m その「天正の大地震」について、本書237~239頁( ̄◇ ̄;)
・・・/天正十三年十一月二十九日、美濃の内ヶ島氏理[うじまさ]は秀吉から
所領を安堵されたことを祝い、帰雲[かえりくも]城(岐阜県白川村)で祝宴を
催した。ところが、同じ日の午後十一時頃、東海・北陸・近畿という広い地域を
巨大地震が襲った。これが天正の大地震だ。/その凄まじさは、当時の記録にも
書き残されている。『舜旧記』という史料によると、海岸近くの場所は波に覆い
つくされ、死人が多数出たという。地震はその後も断続的に翌年初頭まで続き、
京都や奈良の寺社では地震が収まるよう祈禱を行った。天正の大地震は各地に
深刻な被害をもたらした。/むろん帰雲城も例外ではなく、富山湾から流れる
庄川右岸の帰雲山が大崩落を起こした。これにより、帰雲城をはじめ、城主の
内ヶ島氏理をはじめとする一族・家臣と住民や牛馬があっという間に地下に埋没
してしまった。こうして、百二十年余り続いた内ヶ島氏は、ほんの一瞬で帰雲城
とともに消滅したのである。/『顕如上人貝塚御座所日記』には、帰雲城の被害
状況が詳しく書かれている。その記述を現代語訳で示すと、次の通りである。
飛騨の帰雲という場所は、内ヶ島という奉公衆が住んでいる場所である。
帰雲は地震で山が揺り崩され、山河の多くが削がれてしまった。内ヶ島氏が
住んでいた場所も洪水が押し寄せ、内ヶ島氏の一族や住人までもが残らず
死んでしまった。たまたま他国に出掛けていた者が四人だけ生き残り、
泣く泣く帰雲に戻ったとのことである。ただ、帰雲はことごとく淵に
なってしまった。
この記述は十二月四日に書かれているので、一週間も経たないうちに、今の岐阜から
大坂へ、被害状況がもたらされたことになる。岐阜県郡上市の長瀧寺に伝わる
『長瀧寺荘厳講記録』には、飛騨に地震があったとの記述に続いて、「白川、帰雲の
二つの山は打ち崩れ、内ヶ島氏理のほか五百人余と牛馬までも一瞬に死んでしまった」
と書かれている。後世の編纂物も、ほぼ同じことを伝えている。/・・・
城ごとタイムスリッ・・ヘ(__ヘ)☆\(^^; 生き残った4人は浄土真宗の信者でしたチャンチャンという
仏教説話ではないよね(@_@;) 名著『世界の大災害』の金子史朗あたりが書いてないのかな(@_@;)
60頁の「以後、信忠は北畠氏を称したのである。」は「信雄」、274頁の「信雄が尾張、伊賀、南伊勢
などに約百万石を領有したのは、その証であろう。」の「南伊勢」は「北伊勢」の誤植かな(@_@;)
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渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書,2020)
読了(^o^)丿 本能寺の変、そして、山崎の戦いの後、織田家の宿老4人が尾張清須城に集まって信長・
信忠父子の後継者を誰にするか話し合われたとされる清須会議は、二次史料(軍記物語、家譜、系図
といった後世になって編纂されたもの)に依拠して描かれてきたが、より史料的価値が高いとされる
一次史料(同時代に作成された書状、日記)によって、その真相を探るとともに、良質な先行研究や
一次史料に基づいて秀吉の天下取りの道程を描き出そうとする本書(^^) 細目次は省略するけど、
はじめに
序章 清須会議への道のり──信長の死と後継者問題
第一章 従来説に見る清須会議の展開
第二章 清須会議の真相と新たな政治体制
第三章 清須会議後の争乱──賤ヶ岳の戦い
第四章 徳川家康の屈服──小牧・長久手の戦い
第五章 関白就任と家康の従属
第六章 豊臣政権の確立
おわりに
主要参考文献
という構成で、書名は何なんだと思わないでもないが、書状や日記から引いてきた、通史的な歴史書
には出て来ないような細か~い出来事(竹ヶ鼻城を水攻めした様子等)を散りばめつつ、秀吉による
天下統一までを描き、初見の話も結構あるし、また清須会議に対する認識を改めたところも(⌒~⌒)
小牧・長久手の戦い後、いったん和睦するも、再び対立して、秀吉は家康を討伐しようとしたけど、
「天正の大地震」が発生したために、家康は命拾いしたという話、平山優『武田遺領をめぐる動乱と
秀吉の野望 天正壬午の乱から小田原合戦まで』(戎光祥出版,2011)でも読んだ記憶が(@_@;) もし
記憶違いだったら、ごめんなさいm(__)m その「天正の大地震」について、本書237~239頁( ̄◇ ̄;)
・・・/天正十三年十一月二十九日、美濃の内ヶ島氏理[うじまさ]は秀吉から
所領を安堵されたことを祝い、帰雲[かえりくも]城(岐阜県白川村)で祝宴を
催した。ところが、同じ日の午後十一時頃、東海・北陸・近畿という広い地域を
巨大地震が襲った。これが天正の大地震だ。/その凄まじさは、当時の記録にも
書き残されている。『舜旧記』という史料によると、海岸近くの場所は波に覆い
つくされ、死人が多数出たという。地震はその後も断続的に翌年初頭まで続き、
京都や奈良の寺社では地震が収まるよう祈禱を行った。天正の大地震は各地に
深刻な被害をもたらした。/むろん帰雲城も例外ではなく、富山湾から流れる
庄川右岸の帰雲山が大崩落を起こした。これにより、帰雲城をはじめ、城主の
内ヶ島氏理をはじめとする一族・家臣と住民や牛馬があっという間に地下に埋没
してしまった。こうして、百二十年余り続いた内ヶ島氏は、ほんの一瞬で帰雲城
とともに消滅したのである。/『顕如上人貝塚御座所日記』には、帰雲城の被害
状況が詳しく書かれている。その記述を現代語訳で示すと、次の通りである。
飛騨の帰雲という場所は、内ヶ島という奉公衆が住んでいる場所である。
帰雲は地震で山が揺り崩され、山河の多くが削がれてしまった。内ヶ島氏が
住んでいた場所も洪水が押し寄せ、内ヶ島氏の一族や住人までもが残らず
死んでしまった。たまたま他国に出掛けていた者が四人だけ生き残り、
泣く泣く帰雲に戻ったとのことである。ただ、帰雲はことごとく淵に
なってしまった。
この記述は十二月四日に書かれているので、一週間も経たないうちに、今の岐阜から
大坂へ、被害状況がもたらされたことになる。岐阜県郡上市の長瀧寺に伝わる
『長瀧寺荘厳講記録』には、飛騨に地震があったとの記述に続いて、「白川、帰雲の
二つの山は打ち崩れ、内ヶ島氏理のほか五百人余と牛馬までも一瞬に死んでしまった」
と書かれている。後世の編纂物も、ほぼ同じことを伝えている。/・・・
城ごとタイムスリッ・・ヘ(__ヘ)☆\(^^; 生き残った4人は浄土真宗の信者でしたチャンチャンという
仏教説話ではないよね(@_@;) 名著『世界の大災害』の金子史朗あたりが書いてないのかな(@_@;)
60頁の「以後、信忠は北畠氏を称したのである。」は「信雄」、274頁の「信雄が尾張、伊賀、南伊勢
などに約百万石を領有したのは、その証であろう。」の「南伊勢」は「北伊勢」の誤植かな(@_@;)