「都内で家族間の感染が増加」に「臭うアノ人とは以前から2mは距離を」とドヤ顔の妻もいたり(^。^;)
「190512読んだ本」に〈「愛を読むひと」(2008年・米/独)_φ( ̄^ ̄ )メモメモ 〉とあったが、今夜
またTVKで放送される(⌒~⌒) 名作と思うけど、超重いし、登場人物の最後の行動が理解できなくて、
ネットで解説を読んだら、深~いことも判った( ̄◇ ̄;) 視たいけど、電気代を節約(´;ω;`)ウッ…
「朝6時5分頃に新ポイントポン!で1000p当たった(^^)」と「190419読んだ本」にあったが今年は(..)

【昨日買った本&読んだ本】

角田文衞『承香殿の女御 復原された源氏物語の世界』(中公新書,1963)

楽天市場「もったいない本舗 楽天市場店」に「良い」を269円(335円-66p)で15日に注文したのが
昨日18日に届いたけど、どー見ても状態は「可」(^_^;) 古本屋の店頭の100円均一の箱で10年ぐらい
日に照らされてきたような見た目だし、ブックオフなら絶対に買い取ってくれないレヴェル(@_@;)
351円(351→345→336→335円と毎日値下がり中だった)で買ってたらクレームつけてたかも(^_^;)
もったいない本舗が同封してくれる卓上カレンダーが目当てだったしね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

児島高徳の実在や楠木正成・正行父子の「桜井の別れ」の逸話等を否定して「抹殺博士」と言われた
重野安繹とは逆に、伝説(例えば、在原業平の東下り)を史実だと主張しまくるのが角田文衞(^_^;)

本書の「承香殿の女御」とは藤原元子を指してて、彼女は悪霊左府こと藤原顕光の娘である(⌒~⌒)

関白藤原兼通(弟の兼家と仲が悪かったことで有名)の子であり、左大臣にまでなった藤原顕光は、

    ・・・家柄・天皇家との血縁および姻戚関係・地位のどれをとっても、
    当代第一級の大臣であり、まさに朝廷の重鎮として一身に尊敬を……
    集めていてもよさそうなものであったが、実際は無能の大臣として
    朝廷の軽侮を一身に(正確には道長の異腹の兄、藤原道綱とともに)
    集めている存在であった。彼は当時としては珍しく、陰口のみならず
    表口をも叩かれるのが常で、儀式の度に公卿たちの面前で罵倒される
    ことが多かった。しかも無能で耄碌しているとなると、少しはおとなしく
    していればよさそうなものを、儀式や政務の度にそれを自身の手で
    執り行ないたがり、当然の事ながら失態を演じて、ますます人々に
    軽蔑されるという有様であった。・・・顕光一族には実に気の毒な不幸が
    次々と訪れるのであるが、不思議なことに彼は人々から一向に同情された
    気配はなく、ついには死後に悪霊となり、道長家をさんざんに苦しめる
    といった、考えてみればものすごい人物である。/・・・

倉本一宏「摂関期の望ましい政治家像 政務と儀式の実態」芸術新潮1994年4月号から引いたが、ソレ
によると、藤原道長は顕光を「大馬鹿の中の大馬鹿である」(至愚之又至愚也)と罵倒した由(^_^;)

一条天皇の女御だった藤原元子について渡辺実『大鏡の人びと 行動する一族』(中公新書,1987)は、

    ・・・/顕光という人物は感情の激しい人であったらしい。姉娘の元子[妹娘は小一条院
    に嫁いだ延子]には、一条帝崩御後、源頼定(為平親王の息、為平親王は村上天皇の皇子)
    が通って来るようになり、それを知った顕光は激怒して、自ら元子の髪を切って尼とした
    ことがある。尼にするということは、男性との性的関係を以後は持たせぬ、という意志の
    表明であったけれども、元子と頼定との関係は続き、切られた髪ものびて元どおりとなった。
    いわば元子は、父顕光の意にあえて逆らった娘であった。/・・・

といった感じで、元子も顕光もともに面白そうなキャラなんだが、チラッと読んだ限りでは首を傾げ
たくなる記述も散見されたので、本書も面白いかどうかは保証しかねる〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

[追記201018]

倉本一宏編『現代語訳 小右記7 後一条天皇即位』(吉川弘文館,2018)258頁の長和5年(1016年)
正月27日条を引く_φ( ̄^ ̄ )メモメモ

     二十七日、壬申。 道長、固関の儀の際の顕光の失態を罵る/「至愚の又至愚」

    [藤原]資平が云ったことには、「昨日、左相国[藤原道長]が云ったことには、
    『「右府[藤原顕光]は固関の儀の上卿を勤めいてた際、失誤が多端なであった」
    と云うことだ。一条院の御譲位の際の固関についても、右府が上卿を勤めた。
    事の忌みが有るので、私(道長)は頗る意向を示したのだが、そのことを
    覚えておらず、無理に上卿を勤めた。失儀が多かったので、諸卿の為に笑われた。
    至愚のまた、至愚である』ということでした」と。