朝食の前に地下水を何度も汲み上げて庭のお花にせっせと水をあげたのに雨がポツポツ降り出した(^_^;)
その朝食で(珍しく)焼きおにぎりを食べてたら奥歯(右下)に詰めていた金属が取れちゃった(´・_・`)
買おうと思った古本、2000円以上の値だったのに出品者同士が競い合って毎日数円ずつ値を下げてくれて
300円台まで下がったから、今週末には手に入るギフト券で買うつもりでいたら、昨日買われてしまって
値も2000円以上に戻ったヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 「この商品は今日×人が見ました」とか表示してほしい(^_^;)
【読んだ本】
目崎徳衛(日本歴史学会編集)『紀貫之』(吉川弘文館人物叢書,1961→1985新装版)所蔵本
正岡子規が、紀貫之を「下手な歌よみ」、『古今和歌集』を「くだらぬ集」と罵った結果、「・・・
貫之の地位は奈落の底まで転げ落ちてしまったのである。」として、本書は次のように記す( ̄◇ ̄;)
・・・さて私はいま貫之の像を作ろうとして、彼の下降一途の運命を逆転して、
ふたたび彼に生前のあの栄光を纏いつかせてやるべき義理もない。けれども
たとえば貫之の豊かな文学的業績が、「年のうちに春はきにけり一年[ひととせ]を
去年[こぞ]とやいはむ今年とやいはむ」という下らぬ歌を選りに選って『古今集』の
巻頭に据えた千慮の一失などによって、頭から否定されてしまった形になっているのも、
少しばかりバランスを失していると思うのである。/・・・
この在原元方の歌が「下らぬ歌」で、この歌を紀貫之ら撰者が『古今和歌集』の巻頭歌に据えたのは
「千慮の一失」だとぉ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!? 目崎徳衛『日本詩人選6 在原業平・小野小町』
(筑摩書房,1970)収録の論稿「古今的なものについて」では次のように書いてたよなC= (-。- ) フゥー
・・・/子規に痛罵された「年のうちに春は来にけり ひととせを去年とやいはん
今年とやいはむ」の作者は、[在原]業平の孫元方であった。しかし貫之が
この一首を勅撰歌集の冒頭に据えたのは、決して不用意の処置ではない。第一に
それは尊敬する古人業平の血を引く今人の作品として「古今」の名称に最もふさわしい。
第二にそれは立春の歌であり、四季歌の初めの春歌のさらに先頭に配列するには
絶好の題材である。第三に、それには俊爽な才気が閃き、新しい知的歌風を
端的に誇示している。大体こんな風な根拠があったと想像されるが、あるいはまた
第四に、歌柄の軽やかさがプロローグにふさわしいとも計算されたのかも知れない。
歌仙の場合でも、発句の力み過ぎはいけないのだ。/こうした繊細な心配りを、
松山藩士族の田舎者、大学予備門出身の野暮書生子規居士は全く理解しなかった。
たとえ理解したとしても、共感することは無かったであろう。・・・
この「古今的なものについて」は、再収録した目崎徳衛『王朝のみやび』(吉川弘文館歴史文化セレ
クション,2007)で読んでたから、先に引用した本書の記述を読んだ時は目が点になったぞ(@_@;)
本書を読み進めると、1973年2月付の〔第四版追記〕なるものがあり、そこに次の件があった(^_^;)
・・・貫之の文学に対する私の考えも、この十年間にいくらかは深まった。
くわしく触れることはできないが、小著『在原業平・小野小町』(日本詩人選)、
特にその巻末に収めた「古今的なるものについて」という論文に、ごく簡略ながら
述べておいた。参照願えれば幸いである。
またウダダが醍醐天皇に与えた「寛平御遺誡」に関する本書の次の記述には首を傾げた( ̄◇ ̄;)エッ!?
・・・/この境遇に入るに当って宇多上皇は年わずか十三歳の醍醐新帝のために
有名な『寛平遺誡』を示した。その中で「功臣之後」なる藤原時平を顧問として
重用せよと勧めるとともに、菅原道真を「朕の忠臣に非ず、新帝の功臣」として推し、
紀長谷雄・藤原定国らをも挙げて後顧の憂の無いことを期した。・・・
藤原定国の名があるのが解せぬ(@_@;) 例えば、wikiの「寛平御遺誡」の項も次の如く説明(@_@;)
・・・/また、宇多天皇の譲位の事情や当時の宮中の人物評(藤原時平・菅原道真・
平季長・紀長谷雄ら)も行っており、当時の政治史の研究にも欠かせない。/特に
藤原時平を「若いが政理に通じているので顧問にして輔導に従うべき」とし、
菅原道真を「鴻儒で深く政事を知るもので“新君之功臣”として信任すべき」と説き、
醍醐天皇の立太子も譲位も道真だけに相談して決めたと記している。また、平季長と
紀長谷雄は将来国家を支える大器になるだろうと予測し、両名を重用するように
求めている(ただし、平季長は御遺誡が出されてからわずか19日後に突然の病で
死去している)。/・・・
御覧の通り、藤原定国(醍醐天皇の母・藤原胤子の弟)の名は出て来ない(@_@;) 藤原時平とともに
藤原定国は勅撰集『古今和歌集』の撰集を実際に意図・推進し、壬生忠岑を撰者の一人に推挙したと
推論する藤岡忠美『紀貫之』(講談社学術文庫,2005)ですら、「さらに宇多は、幼少の醍醐のために
天子としての心得を書き記した。それが世に知られる『寛平御遺誡』である。宇多は、醍醐新帝に
与えたこの訓戒の中で、信頼すべき臣下として時平・道真・平季長・紀長谷雄の名を挙げている。」
として、その内容も詳述してるけど、藤原定国の名前は全く出て来ない〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
「寛平御遺誡 藤原定国」でネット検索したところ、「山陰亭」というサイトの「漢詩和歌快説講座
『寛平御遺誡』」というページ(⇒ http://michiza.net/jcp/jcpyuika.shtml )がヒットし、次の
記述があった∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?
季長と長谷雄を「大器」と評していますが、この言葉は、もう一度別の箇所で出てきます。
それは、「外戚に大器の事を寄すべき無きを嗟なげく」という一節です(目崎徳衛氏
「『寛平御遺誡』の逸文一条」「日本歴史」441、1985年2月)。新帝の外祖父たる
藤原高藤、伯父の定国・定方兄弟は、時平の牽制役としても、単なる政治家としても、
とても期待できないという上皇の本音を如実に示しているようです。
本書の新装版第1刷は1985年11月1日発行だが、この点に関する「追記」や「新装版注」は無い(@_@;)
1961年当時の目崎徳衛には、人物叢書は荷が重かったということかしらね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
その朝食で(珍しく)焼きおにぎりを食べてたら奥歯(右下)に詰めていた金属が取れちゃった(´・_・`)
買おうと思った古本、2000円以上の値だったのに出品者同士が競い合って毎日数円ずつ値を下げてくれて
300円台まで下がったから、今週末には手に入るギフト券で買うつもりでいたら、昨日買われてしまって
値も2000円以上に戻ったヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 「この商品は今日×人が見ました」とか表示してほしい(^_^;)
【読んだ本】
目崎徳衛(日本歴史学会編集)『紀貫之』(吉川弘文館人物叢書,1961→1985新装版)所蔵本
正岡子規が、紀貫之を「下手な歌よみ」、『古今和歌集』を「くだらぬ集」と罵った結果、「・・・
貫之の地位は奈落の底まで転げ落ちてしまったのである。」として、本書は次のように記す( ̄◇ ̄;)
・・・さて私はいま貫之の像を作ろうとして、彼の下降一途の運命を逆転して、
ふたたび彼に生前のあの栄光を纏いつかせてやるべき義理もない。けれども
たとえば貫之の豊かな文学的業績が、「年のうちに春はきにけり一年[ひととせ]を
去年[こぞ]とやいはむ今年とやいはむ」という下らぬ歌を選りに選って『古今集』の
巻頭に据えた千慮の一失などによって、頭から否定されてしまった形になっているのも、
少しばかりバランスを失していると思うのである。/・・・
この在原元方の歌が「下らぬ歌」で、この歌を紀貫之ら撰者が『古今和歌集』の巻頭歌に据えたのは
「千慮の一失」だとぉ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!? 目崎徳衛『日本詩人選6 在原業平・小野小町』
(筑摩書房,1970)収録の論稿「古今的なものについて」では次のように書いてたよなC= (-。- ) フゥー
・・・/子規に痛罵された「年のうちに春は来にけり ひととせを去年とやいはん
今年とやいはむ」の作者は、[在原]業平の孫元方であった。しかし貫之が
この一首を勅撰歌集の冒頭に据えたのは、決して不用意の処置ではない。第一に
それは尊敬する古人業平の血を引く今人の作品として「古今」の名称に最もふさわしい。
第二にそれは立春の歌であり、四季歌の初めの春歌のさらに先頭に配列するには
絶好の題材である。第三に、それには俊爽な才気が閃き、新しい知的歌風を
端的に誇示している。大体こんな風な根拠があったと想像されるが、あるいはまた
第四に、歌柄の軽やかさがプロローグにふさわしいとも計算されたのかも知れない。
歌仙の場合でも、発句の力み過ぎはいけないのだ。/こうした繊細な心配りを、
松山藩士族の田舎者、大学予備門出身の野暮書生子規居士は全く理解しなかった。
たとえ理解したとしても、共感することは無かったであろう。・・・
この「古今的なものについて」は、再収録した目崎徳衛『王朝のみやび』(吉川弘文館歴史文化セレ
クション,2007)で読んでたから、先に引用した本書の記述を読んだ時は目が点になったぞ(@_@;)
本書を読み進めると、1973年2月付の〔第四版追記〕なるものがあり、そこに次の件があった(^_^;)
・・・貫之の文学に対する私の考えも、この十年間にいくらかは深まった。
くわしく触れることはできないが、小著『在原業平・小野小町』(日本詩人選)、
特にその巻末に収めた「古今的なるものについて」という論文に、ごく簡略ながら
述べておいた。参照願えれば幸いである。
またウダダが醍醐天皇に与えた「寛平御遺誡」に関する本書の次の記述には首を傾げた( ̄◇ ̄;)エッ!?
・・・/この境遇に入るに当って宇多上皇は年わずか十三歳の醍醐新帝のために
有名な『寛平遺誡』を示した。その中で「功臣之後」なる藤原時平を顧問として
重用せよと勧めるとともに、菅原道真を「朕の忠臣に非ず、新帝の功臣」として推し、
紀長谷雄・藤原定国らをも挙げて後顧の憂の無いことを期した。・・・
藤原定国の名があるのが解せぬ(@_@;) 例えば、wikiの「寛平御遺誡」の項も次の如く説明(@_@;)
・・・/また、宇多天皇の譲位の事情や当時の宮中の人物評(藤原時平・菅原道真・
平季長・紀長谷雄ら)も行っており、当時の政治史の研究にも欠かせない。/特に
藤原時平を「若いが政理に通じているので顧問にして輔導に従うべき」とし、
菅原道真を「鴻儒で深く政事を知るもので“新君之功臣”として信任すべき」と説き、
醍醐天皇の立太子も譲位も道真だけに相談して決めたと記している。また、平季長と
紀長谷雄は将来国家を支える大器になるだろうと予測し、両名を重用するように
求めている(ただし、平季長は御遺誡が出されてからわずか19日後に突然の病で
死去している)。/・・・
御覧の通り、藤原定国(醍醐天皇の母・藤原胤子の弟)の名は出て来ない(@_@;) 藤原時平とともに
藤原定国は勅撰集『古今和歌集』の撰集を実際に意図・推進し、壬生忠岑を撰者の一人に推挙したと
推論する藤岡忠美『紀貫之』(講談社学術文庫,2005)ですら、「さらに宇多は、幼少の醍醐のために
天子としての心得を書き記した。それが世に知られる『寛平御遺誡』である。宇多は、醍醐新帝に
与えたこの訓戒の中で、信頼すべき臣下として時平・道真・平季長・紀長谷雄の名を挙げている。」
として、その内容も詳述してるけど、藤原定国の名前は全く出て来ない〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
「寛平御遺誡 藤原定国」でネット検索したところ、「山陰亭」というサイトの「漢詩和歌快説講座
『寛平御遺誡』」というページ(⇒ http://michiza.net/jcp/jcpyuika.shtml )がヒットし、次の
記述があった∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?
季長と長谷雄を「大器」と評していますが、この言葉は、もう一度別の箇所で出てきます。
それは、「外戚に大器の事を寄すべき無きを嗟なげく」という一節です(目崎徳衛氏
「『寛平御遺誡』の逸文一条」「日本歴史」441、1985年2月)。新帝の外祖父たる
藤原高藤、伯父の定国・定方兄弟は、時平の牽制役としても、単なる政治家としても、
とても期待できないという上皇の本音を如実に示しているようです。
本書の新装版第1刷は1985年11月1日発行だが、この点に関する「追記」や「新装版注」は無い(@_@;)
1961年当時の目崎徳衛には、人物叢書は荷が重かったということかしらね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ