月が替わったからカードで増税前に買い物と思うも依然として欲しい古本はマケプレに出てない(-ω-、)
実は一番欲しい古本が先月ついに出品されたんだけどコンディション「可」で15000円もヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
それでも数日で買われちゃった((;゚Д゚)ヒィィィ! とりあえず買い忘れてた新刊の漫画を買うかな(´・_・`)

【読んだ本】

藤岡忠美『紀貫之』(講談社学術文庫,2005)所蔵本

『ちはやふる』41巻がバカチンな訳を付けてた『百人一首』にも入っている紀貫之の歌、小町谷照彦
(訳注)『古今和歌集』(ちくま学芸文庫,2010)から詞書と訳も合わせて引く(^o^)丿

      初瀬に詣づるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、程経て後にいたれりければ、
      かの家のあるじ、「かくさだかになむ宿はある」と言ひ出[い]だして侍りければ、
      そこに立てりける梅の花を折りてよめる

    人はいさ心も知らず故里は花ぞ昔の香ににほひける

       長谷寺に参詣するたびに宿にしていた人の家に、長い間泊らないでいて、久しぶりに
       立ち寄ったところ、その家の主人が、「このように確かに宿はありますよ」と
       言い出したので、そこに立っていた梅の花を折り取って詠みかけた歌

      あなたの気持ちが以前と変りがないかどうか、さあよくわかりませんが、
      なじみ深いこの土地では、梅の花だけは昔と変らない香で美しく咲いています

手元の島津忠夫(訳注)『新版 百人一首』角川ソフィア文庫を引く際、2008年という発行年とともに
「新版16版」と記しているのは、同じ「新版」でも何版かによって細かく修正されてるから(@_@;)
読者的には増刷の度に記述が修正された可能性があってチト困るが、島津忠夫の学問的良心の現われ
と受け止めていた(〃'∇'〃) そんな良心的な島津忠夫が、この歌に付した補注に目がテン( ̄◇ ̄;)

    詞書の「かの家のあるじ」を女主人と思い込んでいて、いち早く山崎敏夫氏から、
    その根拠を問われ、明確に答えられないままに来た。その後、大岡信氏[『小倉
    百人一首』(世界文化社,1980)]が「この家のあるじは親しい関係にあった女性と
    考えられる。一見互いに相手を責めるようなやりとりだが、心はその反対で、むしろ
    ちょいと手のこんだ昔なじみ同士の形を変えた恋歌のやりとりとみることができる」
    と言われ、意を強くしたのであったが、片桐洋一氏が『古今全評釈』[ママ]に
    [詞書の]「いひいだして侍りければ」の表現から明確に説かれているのを読み、
    はじめて私の思い込みが誤りでなかったことを知る。

島津忠夫が「根拠」も無く「思い込み」で宿の主人を「女主人」と記していたというのは驚き(゚ロ゚;)

「根拠を問われ、明確に答えられないまま」だった島津忠夫にとって福音となったのが、1998年刊の
片桐洋一『古今和歌集全評釈』講談社なんだけど、その講談社学術文庫版(2019年)上巻から当該件
=「言ひ出だして」の【語釈】を引く(⌒~⌒)

    内にいる人が外にいる人に物を言うこと。『古今集』では他に例がないが、
    『後撰集』では・・・のように、簾[すだれ]の中にいる女が外にいる男に
    言葉を伝えるのが普通であることを思えば、この長谷の宿の主も女と考えるべき
    であろう。主が男であれば、貫之を出迎えるために、外に出ているはずであって、
    屋内から対応するとは考えられない(【鑑賞と評論】【注釈史・享受史】参照)。

その【注釈史・享受史】でも次の如く上から目線で記しているし、片桐洋一はドヤ顔してそう(⌒~⌒)

    ・・・まことにこの歌においては、物語的場面性が大きな特色をなしているのであるが、
    それを一歩進めて、歌の調べから「女に対する恋のうらみごと」を述べているとした
    大岡信(『紀貫之』筑摩書房刊)の推測は、「言ひ出だす」の用例から私が帰納した
    とおりであって、まことに鋭い。

だが、この歌について本書で藤岡忠美が詳論しているのを読んで、島津忠夫はダメだと判った(-ω-、)

    ・・・/相手の心変わりを疑い、そして責め合うこのやりとりは、折った梅の花を
    添えての贈歌でもあり、「宿のあるじ」が女性であったのではないかという疑いを
    いだかせる。この歌からそこはかとなく感知されるのは、恋歌的性格なのである。
    この点に敏感に反応を示した数少ない先人としては、折口信夫氏がおり、「詞書き
    あるいは歌の様子を素直にとると、どうも女性の言いおこしたふうにとるべきである」
    「坊住みの女性からうらみごとめかしく述べてきた、実は、挨拶であるとみるがいい」
    などの読解がある。これらの語調からは、深い男女関係というよりも、親しみを感ずる
    女性との間に交わした挨拶の歌として理解されているようであり、したがって
    この歌の言葉の豊かさ、やさしさが前面にとらえられている感がある。また、大岡信氏は
    折口氏の解を承け、「女の心変りを怨ずる心の一種の艶」「女に対する恋のうらみごと」
    が示されていると見るから、相手を恋人関係にある女性とする想定のもとに、この歌の
    読解がなされていることが知られる。/・・・

島津忠夫は、碩学・折口信夫が先に論じていたのを知らなかったのか、あるいは知ってたのに大岡信
ごとき俗受けするような詩人の論を引いたのかよ(´ヘ`;) それは研究者としてダメだろ(ノ_-;)ハア…

また文庫化の際の加筆ではなく1985年に出た本書の単行本にも次の記述が存在したのなら、片桐洋一
より先に藤岡忠美こそが「言ひ出だして」に着目して論じてたことに∑( ̄ロ ̄|||)にゃんですと!?

    ・・・/詩人的直感と研究者の洞察とをあわせもつ両氏[=折口&大岡]に共通したのは、
    この歌を贈った相手が女性であったのではないかという想定であった。そこでこのことを
    原文に即して実証的に解明してみようとなると、手がかりはただ一つ、詞書によれば
    相手からの皮肉めいた「かくさだかになむ宿りはある」という恨みごとは「言ひ出し」て
    きたのであった。さっそく「言ひ出す」の用例を調べてみると、建物の内部から女が
    外の男に人を介して言葉を伝える事例が多く見出される。この語は相手が女であることの
    可能性を高めるものである。男女関係の恨みつらみにからむ場面で使われることも結構ある。
    すべての場合がそうであるわけではないので断定はできないけれども、少なくとも
    この「言ひ出す」という語には男女関係への連想を私たちに誘うところがあり、背後に
    女性の存在をニュアンスとしてちらつかせるおもむきの多いことが分かったのである。/
    しかし、だからといってこの一語の詮索だけで、女性への贈歌だと決めつけるわけには
    ゆかない。また、ほかに成立事情を知る手がかりとなる語句も見当たらない。通説は
    宿の男主人との応酬の歌と解しているのだが、それとの関係はどうなるのであろうか。/
    結論を先に書くと、この歌からそこはかとなく感知される恋歌的性格はまぎれもない。
    だが、だからといって相手が女性でなければならないという道理はない。通説どおり、
    やはり相手は男の知人だったのだが、実はこの時期の贈答歌にときどきみられるところの、
    恋愛的味つけをした恋歌もどきの歌にほかならなかったのではなかろうか、
    というのが私見である。・・・

「言ひ出す」の用例について「すべての場合がそうであるわけではないので断定はできない」とあり、
その例外を具体的に挙げてない点は論証として弱いけど、〈「言ひ出だす」の用例から私が帰納した
とおり〉と豪語する片桐洋一は胡散臭くなった(@_@;) 尻馬に乗った島津忠夫も島津ダメ夫(-ω-、)

「恋歌的性格」、宿の主人が男でも貫之は『土佐日記』作者だし実は女だったり・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;