⑭~⑰だけが発送手配完了となり先に届いても困るんだがと思ってたら①~⑬も発送手配完了に(^_^;)
部屋着にしてた麻の混じったシャツも今日で卒業(´・_・`) 掛布団も部厚いのに替えようかしら(-ω-、)
昨夜は雨で急いでいたこともあって真っ暗の庭を突っ切ったらホトトギスを蹴飛ばしちゃった(´ヘ`;)
【読んだ本】
紀田順一郎『にっぽん快人物烈伝』(旺文社文庫,1985)所蔵本
「芸能人」の9人目は「芸に生き恋に死んだ女優」として、松井須磨子だけど、詳しくは知らぬ(´・_・`)
古本に詳しい岡崎武志が角田喜久雄&山口将吉郎(絵)『黒岳の魔人』(中公文庫,2007改版)巻末の
〈「劇画の原点」となった『黒岳の魔人』〉と題した〈解説〉の冒頭で、次のように述べてた(@_@;)
もう十年以上も前、評論家の紀田順一郎さんのお宅へ取材でうかがった時、雑談で
中公文庫の話になった。中公文庫がいかに魅力的な文庫であるかを、この碩学と
語れるなんて、幸せなこと。
「中公文庫がいかに魅力的な文庫」だった(←過去形!)かは〈肌色の頃の〉と限定するなら同感も、
「碩学」だなんて、山口昌男ならともかく、変だろ^_^; 百目鬼恭三郎や谷沢永一には及ばないけど、
紀田順一郎が書物にメチャ詳しいことは認めるけどさ(^_^;) それにしても、何度か指摘したように、
本書の記述にはミスが散見されるね(@_@;) 巻末には人物別に「参考文献」が挙げられているけど、
ソレらから紀田順一郎が逸話を纏めた際に誤りを正さなかったのか(@_@;) 例えば、次の逸話(@_@)
彼女はひどいヒステリー性であった。最初に結婚した前沢誠助とは、恋愛結婚
であったといわれているが、ヒステリーはおさまることなく、毎日のように
夫を苦しめ、なやませた。「今朝も、煮え立ったお汁を僕にぶっつけるんですよ、
これ・・・・・・」と、亭主はやけどした腕をまくって、人にみせるのが常だった。
単行本(河出書房新社)は1963年に出た戸板康二『松井須磨子 女優の愛と死』(文春文庫,1986)には、
須磨子は正式の結婚生活を、二度経験した。/最初の結婚は、明治三十六年、
数え年十八歳の秋である。・・・/須磨子は、鳥飼啓蔵という夫を持った。・・・/
十八歳で、ごく普通の嫁入りをし、翌年実家に帰されたこの須磨子の第一の結婚は、
須磨子に人の世のはかなさを教えただけに終ったようである。/・・・/町田犀仙は
まだ当時学生で、榊病院を退院した須磨子をしばらくあずかっていた家の子息だった。
・・・そして、この家に家庭教師に来ていた前沢誠助が、次に、須磨子の夫となった
のである。/・・・/第二の結婚は、明治四十一年の秋である。・・・
本書が紹介している最後の逸話は次の通りで、上記の副題からは少し逸脱している感じもする(@_@;)
[島村]抱月のあとを追って死のうと決心したとき、彼女は一個の女でしかなかったが、
死の瞬間、ふたたび芸術家としてのセンスが頭をもたげてきた。自殺に用いる扱帯
[しごきおび]の色を考え、青と紅をくらべて、紅を選んだのである。
これに対し、戸板康二・前掲書は「自決」シーンをまるで目撃してたかの如く次のように描写(@_@;)
廊下を通って楽屋に使う二十畳の部屋を通り、須磨子は物置にはいった。戸の外で、
家の中で穿[ママ]く赤い鼻緒の草履をぬいだ。物置には天井がなく、梁がむきだしに
なっている。その下に立った須磨子は三本の扱帯[しごき]を持っていた。/
卓子[テーブル]を隅から動かして来て椅子をのせた。卓子に上って、緋ぢりめんの扱帯を
梁にかけ、水色の扱帯で膝をしばった。もう一本の扱帯は卓子にのせた。/椅子に上った
須磨子は、梁の扱帯の輪の中に、首をさし入れた。目をつぶって「先生」といった。
そして、何のためらいもなく椅子を蹴った。
島村抱月の名を口にしたという根拠あるのか(@_@;) 同書「あとがき」は次のように記すけど(^_^;)
松井須磨子という女優に関する、これはぼくの考証である。/評伝といっても、
ノンフィクションといってもいいが、書いているうちに、やはり考証というのが
当っているような気がして来た。・・・
眠気覚ましのコーヒー飲み過ぎで胃が痛くなったから太田胃散を服用するも依然として痛いし眠い(+_+)
部屋着にしてた麻の混じったシャツも今日で卒業(´・_・`) 掛布団も部厚いのに替えようかしら(-ω-、)
昨夜は雨で急いでいたこともあって真っ暗の庭を突っ切ったらホトトギスを蹴飛ばしちゃった(´ヘ`;)
【読んだ本】
紀田順一郎『にっぽん快人物烈伝』(旺文社文庫,1985)所蔵本
「芸能人」の9人目は「芸に生き恋に死んだ女優」として、松井須磨子だけど、詳しくは知らぬ(´・_・`)
古本に詳しい岡崎武志が角田喜久雄&山口将吉郎(絵)『黒岳の魔人』(中公文庫,2007改版)巻末の
〈「劇画の原点」となった『黒岳の魔人』〉と題した〈解説〉の冒頭で、次のように述べてた(@_@;)
もう十年以上も前、評論家の紀田順一郎さんのお宅へ取材でうかがった時、雑談で
中公文庫の話になった。中公文庫がいかに魅力的な文庫であるかを、この碩学と
語れるなんて、幸せなこと。
「中公文庫がいかに魅力的な文庫」だった(←過去形!)かは〈肌色の頃の〉と限定するなら同感も、
「碩学」だなんて、山口昌男ならともかく、変だろ^_^; 百目鬼恭三郎や谷沢永一には及ばないけど、
紀田順一郎が書物にメチャ詳しいことは認めるけどさ(^_^;) それにしても、何度か指摘したように、
本書の記述にはミスが散見されるね(@_@;) 巻末には人物別に「参考文献」が挙げられているけど、
ソレらから紀田順一郎が逸話を纏めた際に誤りを正さなかったのか(@_@;) 例えば、次の逸話(@_@)
彼女はひどいヒステリー性であった。最初に結婚した前沢誠助とは、恋愛結婚
であったといわれているが、ヒステリーはおさまることなく、毎日のように
夫を苦しめ、なやませた。「今朝も、煮え立ったお汁を僕にぶっつけるんですよ、
これ・・・・・・」と、亭主はやけどした腕をまくって、人にみせるのが常だった。
単行本(河出書房新社)は1963年に出た戸板康二『松井須磨子 女優の愛と死』(文春文庫,1986)には、
須磨子は正式の結婚生活を、二度経験した。/最初の結婚は、明治三十六年、
数え年十八歳の秋である。・・・/須磨子は、鳥飼啓蔵という夫を持った。・・・/
十八歳で、ごく普通の嫁入りをし、翌年実家に帰されたこの須磨子の第一の結婚は、
須磨子に人の世のはかなさを教えただけに終ったようである。/・・・/町田犀仙は
まだ当時学生で、榊病院を退院した須磨子をしばらくあずかっていた家の子息だった。
・・・そして、この家に家庭教師に来ていた前沢誠助が、次に、須磨子の夫となった
のである。/・・・/第二の結婚は、明治四十一年の秋である。・・・
本書が紹介している最後の逸話は次の通りで、上記の副題からは少し逸脱している感じもする(@_@;)
[島村]抱月のあとを追って死のうと決心したとき、彼女は一個の女でしかなかったが、
死の瞬間、ふたたび芸術家としてのセンスが頭をもたげてきた。自殺に用いる扱帯
[しごきおび]の色を考え、青と紅をくらべて、紅を選んだのである。
これに対し、戸板康二・前掲書は「自決」シーンをまるで目撃してたかの如く次のように描写(@_@;)
廊下を通って楽屋に使う二十畳の部屋を通り、須磨子は物置にはいった。戸の外で、
家の中で穿[ママ]く赤い鼻緒の草履をぬいだ。物置には天井がなく、梁がむきだしに
なっている。その下に立った須磨子は三本の扱帯[しごき]を持っていた。/
卓子[テーブル]を隅から動かして来て椅子をのせた。卓子に上って、緋ぢりめんの扱帯を
梁にかけ、水色の扱帯で膝をしばった。もう一本の扱帯は卓子にのせた。/椅子に上った
須磨子は、梁の扱帯の輪の中に、首をさし入れた。目をつぶって「先生」といった。
そして、何のためらいもなく椅子を蹴った。
島村抱月の名を口にしたという根拠あるのか(@_@;) 同書「あとがき」は次のように記すけど(^_^;)
松井須磨子という女優に関する、これはぼくの考証である。/評伝といっても、
ノンフィクションといってもいいが、書いているうちに、やはり考証というのが
当っているような気がして来た。・・・
眠気覚ましのコーヒー飲み過ぎで胃が痛くなったから太田胃散を服用するも依然として痛いし眠い(+_+)