単位獲得という成功時には、能力・努力のお蔭として内在的要因に帰属させ、教員の教え方が良かった
といった外在的要因のお蔭とはしないくせに、失敗すると能力・努力不足といった内在的要因ではなく
外在的要因の所為にして、教員の教え方が悪かったと非難するのが、人間の心理さねC= (-。- ) フゥー
採点して出来が良いと教え方に帰因させちゃうけど(〃'∇'〃)テヘペロ 人間なんてララララララララ~♪

【読んだ本】

杉本苑子『西国巡拝記』(中公文庫,1980)所蔵本

   「箱庭のようだ」/という形容がある。人工的な配慮をすみずみまでゆきわたらせて、
   ちんまりと、愛らしくまとまっている風景・・・・・・。善峰寺がそれである。

という「第二十番 善峰寺」を読んだ(^^) 開基は恵心僧都の高弟の源算上人だが、「・・・上人歿後は
代々法親王が入山し、西山御坊、西山宮とも尊称され、門跡の隠居所、別荘の観を呈した。」として、

   しかし西山宮となって以後、はたしてこの寺が、法灯の真のかがやきを持続してきたか
   と問えば、「否」であろう。寺領が増し寺格があがり、堂塔池泉が整備したことと、
   〝寺の生命[いのち]〟をすこやかに保持することとは、本来、別の問題である。
   法親王さまの隠居所などになりあがったばかりに、この寺は惜しくも死に、同時に美しく、
   品よくなった。いわば形骸の美だ。善峰寺ばかりではない。門跡寺院、何々御所といった
   寺々静謐は、あえぎ、くるしみ、血みどろになって今日を闘っている庶民の目からすれば、
   すべて風化しかかった死物の美しさとしか写らない。とりつき場もない無縁の存在に見える
   のである。寺院だけならいい。仏教そのものが現代人の多くに、生命力をうしなった形骸と
   断じられかねないのを私は恐れる。

仏教総合月刊誌「大法輪」連載、仏教書の総合出版社・大法輪閣から出版とは信じられんヒィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

紙幅を割いているのは、徳川五代将軍の生母・桂昌院のことで、この寺(「よしみねでら」と読むのは
ネットで判明)を彼女が再建したからで、善峰寺の寺伝では桂昌院の出生に関し「曲筆」されてるとか、

   ・・・勝地に桂昌院の墓も鎮座している。もと、この高みには、慈鎮和尚の如法経塚と
   よばれる造型的にも無頼にうつくしい鎌倉期の宝篋印塔[ほうきょういんとう]が
   建っていたのだが、大パトロンの死を哀悼するあまりに、当時の門跡が塔を取りのけて、
   かわりに墓を据えてしまったらしい。現在、塔は、墓より一段下、冠木[かぶき]門のわきに
   置かれている。うっかりすると見落としかねない茂みの片かげだが、ぜひ一見をおすすめ
   したい美塔である。

「・・・桂昌院のお手植え・・・」とされている「遊龍の松」のことも説明されてた_φ( ̄^ ̄ )メモメモ

関係ないけど、伊達政宗の隠居城とされる若林城の跡に建てられた宮城刑務所内にある「蟠龍の松」も
一見の価値あるけど、受刑者は勿論のこと、職員よりも大切にされてるんだぜψ(*`ー´)ψヶヶヶ...

さて、例によって、もっと関係ないこと書くけど、今日の朝日新聞の夕刊で、大東文化大・書道研究所
所長という書道界の偉~い人らしい高木茂行が次のように語っていたよ(聞き手・井本久美)(@_@)

   IT化とともに進む、筆文字離れ。しかし、「書」は決して遠い存在でも、
   難解なものでもありません。読めなくても、楽しめる。・・・

この「読めなくても、楽しめる。」に爆笑^_^; たしかに、書道の臨書作品は、元の古典作品を勝手に
切り刻んでもOKで、漢文の体をなしてないんだから、誰も「読めな」いわな^_^; 例えばの話だけど、
孟浩然の有名な漢詩(駒田信二『漢詩名句 はなしの話』[文春文庫,1982]に拠った)、

            春眠不覺曉  春眠暁を覚えず
            處處聞啼鳥   処処啼鳥を聞く 
            夜來風雨聲  夜来風雨の声
            花落知多少  花落ること多少なるを知る

仮に詩句を次のように切り取っちゃっても、上手~く仕上げれば書道作品になるというんだからね^_^;

              眠不覺曉處處聞啼鳥夜

こんな意味不明なもののでも、字さえ上手く書けてれば、たしかに「読めなくても、楽しめる」^_^;
勿論アートだとは思うけど、村山吉廣の評言を借りれば「無学」のなせる業ということになるね^_^;

今日は怒ってるんじゃなく嗤ってるの^_^; 明日夕方の提出期限に間に合いそうオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)