歴史の歯車を最初に動かした人物であることは明らかなのに評価がチト低い気がするぞ(@_@;)
部屋を閉め切ったら少しの日射しだけで室温が10度を超えてケータイが充電できたぞ(ノ_-;)ハア…
先日ファンヒーターを使ったのは電気代の無駄遣いだったということになるΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン

【読んだ本】

水原一(校注)『新潮日本古典集成 平家物語 上』(新潮社,1979)所蔵本

    /以仁王の首級は都に入ったが、それを見知る者乏しく、(『愚管抄』には学問の師
    日野宗業が首実検に当ったというが)終始疑念がつきまとった。既に諸国源氏への令旨
    は発遣されており、それによる挙兵がこの後続くと、以仁王生存の風説が頻発すること
    になる。『玉葉』からいくつかを挙げてみる。──宮と頼政が告札を発布しながら奥州
    に向った(治承四・九・二三)。宮が七月伊豆にいたが甲斐に行った。仲綱が随って
    いる(同一〇・八)。菅冠者という琴・笛の名手が宮の生前出入りしていた。事件に
    まきこまれ同行して殺された。容貌優美で宮に似ている。宮が討たれたとは実はこの男
    のことであろう(同一〇・一九)。東国の源氏から伊勢に献じた告文が都に届いた。
    最勝親王宣によって軍を起す旨が書いてある(治承五・九・七)。相少納言宗綱法師が
    宮の在所につき尋問されたが知らぬという。しかし生存は確からしい(同一〇・八)等々。
    事実は虚報であろうと言いつつ気にして書き留めているのである。時勢は以仁王生存の
    幻影にゆさぶられること大きかったが、歴史の進行とともに忘れ去られる風説であった。
    ・・・
    
本書の頭注欄の「以仁王生存説」より引いたが、治承4~5年(1180~81年)という時期からみて諸国
の源氏が意図的・計画的に発信・流布した「以仁王生存の風説」だったのかな(@_@;) 地方の源氏
の蜂起を平家の軍勢が鎮圧できない状況がもたらした京の人々の不安感が増幅させたのかも(@_@;)
奈良時代末期に他戸親王が光仁天皇の皇太子の地位を追われて獄死してから4年後に周防国に現れた
偽者(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-10-05 )の如き、自称・以仁王は
出てこなかったのかな(@_@;)ヾ( ̄o ̄;)オイオイもしかして治承だけに自称? また「奥州に向った」
という「以仁王生存の風説」があったということは、後にジンギスカンになった・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;