SSブログ

230604読んだ本【バカチン絵巻②檳榔篇】 [バカチン絵巻]

そもそも社会史は従来の歴史学が政治史中心であることへの異議申し立てで、文化史に弱~い従来の
歴史学研究者が流行に乗ろうと絵巻の読み解きに挑戦しても知識・教養の無さを晒すだけかも(^_^;)
いずれ買うつもりだった7000円の古本とは別の7000円の古本が露伴の所為で欲しくなった(ノ_-;)ハア…
変な日本語のコメしちゃって、気付いて修正しようとしたら既に修正できない状況になってた(^_^;)

【読んだ本(バカチン絵巻②檳榔篇)】

五味文彦『中世のことばと絵 絵巻は訴える』(中公新書,1990)所蔵本

『長谷雄草紙』は物語の舞台が平安前期ゆえ「・・・この当時、男子成人が冠(貴族正装)や烏帽子
(貴族略装、一般の常装)を忘れたり落したり、ましてや着けぬままでいることは、最大の無作法で
あり不恰好であった。・・・」(阪倉篤義&本田義憲&川端善明[校注]『新潮日本古典集成 今昔
物語集 本朝世俗部四』[新潮社,1984])のに「烏帽子を着けてない」人々が描かれてる謎(@_@;)

五味文彦は「烏帽子を着けてない」理由を本書で次のように説明Σ( ̄ロ ̄lll)ニャンですとぉ!?

    ・・・

    B ・・・あれ! この荷車のある家の人たち、皆、烏帽子を着けてないぞ。近くに
      ぼんやり立っている油売りの行商人みたいな人は、ちゃんと着けているのに。

    A いいところに気がついたね。これは庶民のなかでも、下層の人たちを示している
      んだ。でっぷりした、おなか丸出しの男は団扇を持ってるね。扇と団扇の違いも
      あると思うよ。

    ・・・

「庶民のなかでも、下層の人たち」は烏帽子を着けぬという説明が正しいのかどうかは不明(@_@;)
だが、「団扇を持ってる」から「庶民のなかでも、下層の人」だと断定するのは、貴族に「団扇」が
献上されているなどの諸事実があるので誤りであると「230501読んだ本【バカチン絵巻①団扇篇】」
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-05-01 )では指摘したC= (-。- ) フゥー

小松茂美編『日本の絵巻11 長谷雄草紙 絵師草紙』(中央公論社,1988)の説明を丁寧に読んだら、
「でっぷりした、おなか丸出しの男」が、五味文彦の主張するような「庶民のなかでも、下層の人」
であるとは考え難い所以を今回の【バカチン絵巻②檳榔篇】で説明する〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

「でっぷりした、おなか丸出しの男」を小松茂美は前掲『日本の絵巻11 長谷雄草紙 絵師草紙』13頁
で次のように描写(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-04-18 )(⌒~⌒)

    ・・・/さて、板壁の家の門口[かどぐち]には、太っちょの太鼓腹が、
    胸をはだけて、土間にどっかとあぐらをすいて、路上を見やりながら、
    蒲葵扇[ほきせん]を片手に、ゆったりと涼をとっている。/・・・

五味文彦は「蒲葵扇」を単なる「団扇」と考えたようだけど、「蒲葵[ほき]」が檳榔[びろう]の
漢名(中国名)であることに気付かなかったから、その意味を読み解けないオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

檳榔[びろう](字は同一も檳榔[びんろう]は全く別の植物である)と言えば、牛車の檳榔毛車で
知られており、石村貞吉(嵐義人校訂)『有職故実(下)』(講談社学術文庫,1987)から引く(^^)

    ・・・/檳榔毛車[びろうげのくるま]は、一に毛車ともいう。檳榔の葉を
    細く割いて毛のようにして、屋根に葺いてあるのでこの名がある。・・・
    また檳榔につき、『飾抄』には、近衛家の九州における荘園から得たもので、
    ・・・/・・・近衛家の領地であった志摩戸の庄というのは、島津の庄のことで、
    今大隅国南諸県郡志布志村夏井埼の南、海上五、六町に在る岩嶼で、蒲葵[ほき]
    を産する檳榔島のことである。おびただしく檳榔を産し、土地の人はこの檳榔を
    もって団扇や笠を製した。中古にはこれを京に送って、牛車を飾り、屋根を
    葺いたのである。『西宮記』には、「檳榔毛、太上皇以下、四位已上通用」と見え、
    親王・大臣・納言・参議・散二、三位みなこれを用い、・・・古くは僧綱も乗り、
    女房も、賀茂祭の女の使、並びに入内のときにも用いた。・・・

大隅国の「檳榔島」で「産する」「檳榔をもって」「製した」「団扇」が「蒲葵扇」とv( ̄∇ ̄)ニヤッ

さて、さて、さ~て!同書の上記説明にもある通り、檳榔毛車は高位顕官の公用車なわけだが、この
檳榔[びろう]について、藤原実資の日記『小右記』の長和3年(1014年)12月25日条には藤原道長
が「檳榔は、はなはだ得難い」と発言して、藤原公任も「檳榔は得難い」と発言している事実が記録
されてるんだよね(倉本一宏編『現代語訳 小右記6 三条天皇の信任』[吉川弘文館,2018]282頁&
283頁⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-05-10 )オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

最高権力者として国内外の富が集まっていた藤原道長ですら「得難い」檳榔で作られた「蒲葵扇」を
「庶民のなかでも、下層の人たち」が持ってるなんて考え難いだろヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

吉野裕子『扇 性と古代信仰』(人文書院,1984)は、「ビロウ」(=檳榔[びろう])に関し「沖縄
ではビロウは御嶽(日本の神社の祖型と考えられる神霊祭祀の場所)の神木とされている。」ことや
「ビロウの葉を乾燥して形をととのえ、蒲葵扇[くばせん]という団扇がつくられる。」こと、また
「日本の最重要の祭、践祚大嘗祭にビロウが用いられている。」こと等を指摘(同書71頁)し、更に
「蒲葵扇」についても詳述しているので同書72~74頁(返り点等は省略した)及び76頁から引く(^^)

    ・・・暑気払いの料としてビロウの葉を晒し、乾燥させてこしらえた檳榔扇は朝廷の
    貴族の間には早くから使われていた。・・・/・・・[『続日本紀』]宝亀八年
    (七七七)五月の条に、渤海使史都蒙[しとも]らの帰国に際し、[光仁天皇から]
    絹・糸・綿・黄金・水銀・水晶の念珠などにそえて、檳榔扇十枚が贈遣されている
    ことが見えているが、これは炎熱下の航海に、平安と涼気をおくることを意図された
    ものであろう。・・・/ビロウは遠い南の島に育つ樹であり、しかも神木とされて
    いたから無闇に伐採することができず、しだいに増してくる需要をみたすわけには
    いかなかった。檳榔扇は貴重品で高位の人々のためのものであったに違いない。・・・
    檳榔扇のような摺りたためない形の扇、つまり今日のウチワの形をしたものが当時
    このほかにもあったということである。/天平勝宝八年六月、正倉院に納められた尺八
    に刻面されている「婦女嬉遊図」には数人の官女が野遊しているさまが画かれているが、
    そのうちの一人が手にしているのは明らかに団扇である。柄からつづいた一本の条が、
    はっきりとウチワの中心を通っていて、それはたしかに中国の翳[さしは]、または
    団扇のつくりである。この図は中国の図柄を模したものかもしれないが、当時すでに
    おびただしい物品、調度が舶載されてきているから大陸の翳、または団扇も輸入されて
    国内にあったとしても少しもふしぎではない。/・・・/なお晩唐の詩人、李商陰
    (八一二-八五八)の詩に「何人書破蒲葵扇 記著南塘種樹時」というのがあり、また
    李嘉祐に「南風不用蒲葵扇 沙帽閑眠対水鷗」という詩があってともに檳榔扇のことが
    詠まれている。李商陰の生年、八一二年は渤海使、史都蒙に檳榔扇が贈遣された年、
    七七七年から数えれば、わずか三十五年後である。ほぼ同じころ、大陸でも日本でも
    檳榔扇が特殊の階層の人にもてはやされていた。ビロウは華南に自生する。その扇は
    そこから唐の都をへて[ママ]、高麗から日本に渡来したのか、または南海の島から
    九州を経て、大和に入ったのか、檳榔扇の足どりはどうだったのだろう。渡来の足どり
    とともに、日本国内における暑気をはらう実用扇としての檳榔扇の足どりもまた不明
    である。九三四年(承平四)、源順によって撰された『和名抄』の蒲葵扇(檳榔扇)の
    項には、

     蒲葵扇 晋書云蒲葵扇今案蒲葵者或木別名也今称蒲葵者以蒲作之

    とみえていて、檳榔扇のことがもう何か曖昧になっている。・・・/この『和名抄』の
    なかに「蒲扇」という名称が見えているが、当時蒲葵扇に刺激されたものか、あるいは
    古代からあったものか、とにかく植物の繊維で団扇をつくることがあったらしい。・・・


    ・・・/七-九世紀にかけて日本国内には大陸や南の島から伝来の種々の団扇が存在
    した。つまり中国の団扇と南方の檳榔扇である。・・・/それに反して南方の檳榔扇
    は手にもって軽く、耐久性もあり、暑気払いの具としてむし暑い日本でまことに有用
    だった。けれども欠点は供給の少ない貴重品ということである。/・・・/そこで
    中国の団扇から刺激されて、その円形と人工的な柄をつけることを真似し、一方檳榔扇
    の軽さと暑気払いの機能を求めて、この中国の団扇と檳榔扇の二つを祖型としてほぼ
    八世紀の後半にわが国に豊富な竹と紙を使って今日のようなウチワができ、檳榔扇は
    急速に一部の用途をのぞいて(それは後述するが)、姿を消してしまったのではなか
    ろうか。それがおよそ一世紀半後にあらわれた『和名抄』に檳榔扇のことがあいまいに
    なり、一方ではアフギとウチワの区別がはっきりされるようになっている理由ではある
    まいか。/・・・

『日本大百科全書19』(小学館,1988初版第一刷)も「ビロウ〔檳榔〕」の項に「・・・『続日本紀』
に檳榔扇[へん]が斎宮式[いつきのみやしき]の供物としてあげられている。」と湯浅浩史が書い
てた(^_^;) 吉野裕子の所説によれば、紀長谷雄(承和12=845年生~延喜12=912年没)の時代には
「蒲葵扇」は「姿を消してしまっ」ていたことになるけれど、「供給の少ない貴重品」であることは
変わりがない(^_^;) 平安中期の藤原道長(康保3=966年生~万寿4=1027年没)の時代に至っても
「檳榔は、はなはだ得難い」わけだし(^_^;) 「蒲葵扇」は五味文彦が主張するように「庶民のなか
でも、下層の人たち」が所持するような物ではないということオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*) 「太っちょ
の太鼓腹」は実は貴族であるとか主張するつもりは全くなく、貴族に何かコネのある人物かと(^_^;)
小松茂美編『日本絵巻大成7 餓鬼草紙 地獄草紙 病草紙 九相詩絵巻』(中央公論社,1977)所収の
『病草紙』は「・・・十二世紀半ば過ぎの制作であること疑いない。・・・」(同書77頁)が、その
「鼻黒親子」は「ある真夏の昼下がり、これは下級武士一家の団欒の一こまである。・・・腰刀をさ
した、この家の主は、手に持った蒲葵扇[ほきせん]で風を送っている。・・・」(同80~81頁)姿
が描かれているけど、やはり単なる「下級武士」では片付けられないのではないかと愚考する(^_^;)
『長谷雄草紙』で「太鼓腹も、鈎っ鼻も、そして子供の父親も、一様に頭にかぶり物がない」のは、
「絵師は実は烏帽子を被らなくてもよい後世の人間で、その時代感覚で烏帽子を描かなかったのかと
愚考」して、「問題の絵とその前後の絵も別の後世の絵師が後から描き足した(から対応する詞書も
ない)のかなと思ったりもしたが」、【バカチン絵巻④論外篇】ではチャールズ・ライト・ミルズの
社会学的想像力ならぬ歴史学的妄想力で思い付いた愚見でも披露しようかとオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

五味文彦は絵巻への「歴史学からの接近の方法」に「社会史的な手法」があり、「この方法は、絵に
描かれているモノやシグサにまず注目するんだ。人の身なり、持ち物、小道具などなど、それらがど
んな使われ方をするか、あるいはなにを象徴しているか、疑問を発する。そしてその読み解きをして
いくんだ。」と高説を垂れながら、「蒲葵扇」を「・・・団扇を持ってるね。扇と団扇の違いもある
と思うよ」と単なる「団扇」としか認識できないくせに「社会史」を名乗るとは烏滸がましい(^_^;)

・五味文彦『源実朝 歌と身体からの歴史学』(角川選書,2015)

「渚」を「大海」とする東大名誉教授の読解力ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 「大海にもまれる小舟」とは笑止で、
「渚」=波打ち際(水と陸の境界)を綱で曳航されてる小舟の意だよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-05-04

[追記230627]

『長谷雄草紙』の「蒲葵扇」は、『病草紙』のソレとは違って、形状が丸くないけれど、岐阜市歴史
博物館(編著)『日本のうちわ ~涼と美の歴史~』(岐阜新聞社,2001)15頁の「1-19 方扇」の
説明文に〈中世の絵巻に描かれている方扇と同じものである。蒲葵などの植物繊維を編んで作る。柄
と扇部は一体で作られ、柄の位置を扇部の中心線上にするため変形した方形になっている。修験の僧
が持つ「蒲葵扇」も、これと同じ形状であった。〉と記されている〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
コメント(4) 
共通テーマ:

コメント 4

tai-yama

ちょっと太っちょで、"びろーん(檳榔)"と言うギャグもあるので
実は谷啓さんだったり(笑)。
by tai-yama (2023-06-04 23:14) 

middrinn

( ^o^)ノ◇ 山田く~ん 大隅国特産"びろーん(檳榔)"座布団1枚 ♪
「でっぷりし」てるので、谷啓には似ても似付かないですけど(^_^;)
by middrinn (2023-06-05 06:51) 

df233285

社会史的手法が注目される割には、町人マルコポーロの旅行記から、
弥生時代の日本を割り出そうという発想が、我国歴史学会から我々
一般人へは、2020年代の現時点で、余り伝わってこないのも
不思議なことだと私は思う。谷啓さんは「ガチョーン」が知られて
いますが、「ビローン」も、やや頻度が少ないが有りましたね。
by df233285 (2023-06-05 07:27) 

middrinn

『東方見聞録』の記述から「弥生時代の日本」を推定ですか( ̄◇ ̄;)
邪馬台国の研究にも『東方見聞録』は活用されているのかな(@_@;)
by middrinn (2023-06-05 09:41) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。