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230204読んだ本【バカチン】

「・・・と日記には書いておこう」(龍角散トローチ昭和48=1973年CM)は「は」がミソなのに、
深川英雄『キャッチフレーズの戦後史』(岩波新書,1991)は「……と日記に書いておこう」(^_^;)

【読んだ本(バカチン)】

土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,1973初版→2004改版)所蔵本

本書の「身分と昇進」の章の「出世コース」という見出しが付けられた最初の節は、源経頼が蔵人頭
に任ぜられ大喜びするシーンから始まり、土田直鎮は「経頼がこれほど喜んだのは、たんに蔵人頭が
公卿につぐ重職だからということだけではない。蔵人頭を勤めれば、いずれ参議に進み、待望の公卿
の仲間入りができるということが確実だからでもある。」と解説している(^^) 参議というポストに
就いているかどうかは重要ゆえ土田直鎮も注意を払っていると思いきや、別の章で次の記述(-ω-、)

    ・・・/もうひとつ、家柄の点から、娘を宮仕えに出すのをこころよしとしなかった
    向きもある。/例えば、一〇一三年(長和二)、彰子は参議源憲定の十八歳の女子に
    宮仕えをすすめたが、憲定は源俊賢と藤原実資にこれを相談した。実資はこれにたいし、
    ちかごろ、公卿の娘で宮仕えする者もあるが、ほとんどすべて父が死んだのちに出る
    のである。しかも憲定は為平親王[村上天皇の子]の子であり、この名家の女子が
    宮仕えするのは家の恥であろう。出仕を辞退しても別にとがめもあるまいし、よし何か
    あっても、家名のためにかまわないではないか、という感想を記している。/・・・

「源憲定」は「参議」になってねーし(^_^;) 『紫式部日記』に登場する「兵衛の督」という人物を
萩谷朴『日本古典評釈・全注釈叢書 紫式部日記全注釈 上』(角川書店,1971)は源憲定としてて、
〈・・・なにぶん人柄はよくとも、さして有能な人物ではなかったらしく、長徳二年(九九六)八月
五日非参議の従三位で右兵衛督に任じて以後、寛仁元年(一〇一七)六月二日の死に至るまで、ほぼ
満二十一年にわたっていっさい昇進することがなかったのであるから、憲定の呼称が、左右の区別を
つけるまでもなく、「兵衛の督」で通っていたことが容易に理解されるであろう。・・・〉と書いて
るのにね(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-02-02 )(^_^;) 1973年刊の
同書下巻の月報18に掲載された土田直鎮「平安時代と私」は「萩谷氏の紫式部日記全注釈(上巻)を
拝見して、その詳細・適確な内容には全く敬服した。殊に私個人からすれば、登場人物についての
精密な考証に最も深い感銘を受けた。かねがね平安時代の記録を読む上には、きめの細かい人調べが
どうしても必要であると感じていたが、なかなか十分な余裕もないままに過ぎている折から、このよ
うに詳しい、しかも附会に陥ることのない論述に接してただ脱帽するほかはない。・・・」と書いて
いたけど(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-04 )、やはり「拝見」は
拝読に非ずか(^_^;) 一応引くけど、松村博司『日本古典評釈・全注釈叢書 栄花物語全注釈(五)』
(角川書店,1975)の語釈にも「故式部卿一品為平親王(村上天皇皇子)の一男憲定。長徳二年八月
五日右兵衛督となって以来、寛仁元年六月二日薨去まで変らない・・・」とある(^_^;) 念のため、
国際日本文化研究センター「摂関期古記録データベース」を「憲定」で検索したところ、藤原実資の
日記『小右記』の正暦元年(990年)11月26日条から源経頼の日記『左経記』の万寿2年(1025年)
正月11日条までの55件がヒットして(ただ、『左経記』寛仁元年(1017年)10月28日条は誤記か別人
かと愚考)、源憲定は「侍従」か「右兵衛督」か「三位」の冠が付けられており、参議は無い(^_^;)
また『左経記』の万寿2年(1025年)正月11日条は〈十一日、甲午。晴る。昨日、故右兵衛督憲定の
二女、男子[藤原通房]を産む。是れ関白殿[頼通]に候ずる子なり。而るに殿下[頼通]、密々に
芳会有る間、懐妊す。「午剋に及び、平産す」と云々。「禅門[道長]并びに殿下、喜悦せしめ給ふ
こと、限り無し」と云々。〉とあり、「故右兵衛督憲定」という書き方からも「右兵衛督」が源憲定
の最終・最高の官職であり、やはり参議にはなれなかったかと(^_^;) ついでに、土田直鎮の上記の
記述は『小右記』の長和2年(1013年)7月12日条に基づくもので、同データベースの当該条の訓読文
を引いておく(^_^;)

    十二日、壬寅。右兵衛督〈[源]憲定。〉、来たりて云はく、「女子有り。年十八。
    皇太后宮[彰子]、[藤原]広業朝臣を以て頻りに参入せしむべき仰せ有り。甘心
    せざるに依り、源中納言〈俊賢。〉に云ひ合はすに、答へて云はく、『事、宜し
    からずと雖も、仰せ事有るに至りては、何と為んや。案内を取りて示すべし』てへり。
    其の後、納言、云はく、『猶ほ参入せしむべき仰せ有り。然るべき時に参らしむべき
    由を啓すべし』てへり。彼の納言、只、参らしむべき由を啓せしむるに似る。之を
    如何為ん。斯の事を言ひ合はさんが為、来たる所なり」てへり。物の聞こえ有るべき
    に縁り、左右を答へず。一家の事、只、彼の納言の指帰に在るべし。此の趣きを以て
    相示し了んぬ。竊かに思ふに、近代、太政大臣及び大納言已下の息女、父、薨ずる後、
    皆、以て宦仕し、世、以て嗟と為す。但し父、未だ死なざる前に宦仕するは、参議
    [藤原]正光女の外、未だ聞かざる事なり。就中、武衛[源憲定]は故式部卿宮
    [為平親王]の子[←母は源高明女]。其の息女[←母は藤原有国女?]と謂ふは、
    李部宮の孫女。其の寄るところ、尤も尊し。太だ憐れむべき事なり。憚る所有るに依り、
    左右を答へず。末代の卿相の女子、先祖の為に恥を遺すべし。武衛、太だ愚かなり。
    貢献せずと雖も、重譴無かるべきか。縦ひ重科有りと雖も、何事か有らんや。

土田直鎮は少々はしょって紹介してるし、藤原実資は源憲定に対しては「一家の事、只、彼の納言の
指帰に在るべし。」と源俊賢(源高明の子)の言う通り(=宮仕えに出したら)と答えているから、
「・・・という感想を記している」というのは間違ってないけどミスリードの感(^_^;) 藤原実資は
「末代の卿相の女子、先祖の為に恥を遺すべし。武衛、太だ愚かなり。」という激越な言辞を源憲定
には言わず日記に書くだけゆえ、『小右記』は口だけ番長よりヘタレな番長日記・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;

・「古今集に次ぐ勅撰和歌集である拾遺集」だとぉ!土田直鎮も無教養ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-03-26

・土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』は『紫式部日記』を誤読してるヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-04

・土田直鎮は調べもせずにテキトーなこと書き散らかしてんじゃねーよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-04-27

・土田直鎮は『江談抄』を誤読あるいは恣意的に利用しているじゃんヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-10
タグ:歴史
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tai-yama

「……と日記に書いておこう」きっとミソの食べ過ぎで歯抜け(はぬけ)
になったとかだったり(笑)。彰子が無能なおやじの娘に宮仕えを
進めるとは。きっと娘は有能だったのかも・・・
by tai-yama (2023-02-04 19:37) 

middrinn

著者は電通出身ゆえ中抜きは得意かも・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
村上天皇の曾孫という血統の良さに目を付けたかと(^_^;)
源憲定の同母弟のプレイボーイ源頼定は『枕草子』では、
tai-yama様、美貌の貴公子として名前が挙げられてたし、
源憲定女も血筋的に美女だったのかもしれませんよ(^_^;)
現に頼通が手を付けて子を産ませたぐらいですしね(^_^;)
by middrinn (2023-02-04 21:10) 

ナベちはる

「は」があるのとないのでは、印象が変わってきますね(^^;
by ナベちはる (2023-02-05 01:45) 

middrinn

ですよねぇ(^_^;) 僅か一文字なのに、あるだけで、
実際の出来事は違うことを示唆してくれます(^_^;)
by middrinn (2023-02-05 08:48) 

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