220505読んだ本
いつのまにか設定とか変わってるのは長篇小説あるあるで、『源氏物語』も例外ではないかと(@_@;)
【読んだ本】
阿部秋生&秋山虔&今井源衛&鈴木日出男(校注・訳)『新編日本古典文学全集24 源氏物語⑤』(小学館,1997)
『源氏物語』の「須磨」に光源氏が月の顔を見ている描写&詠歌があることを昨日特記した理由は、
例えば、深沢眞二&深沢了子編『芭蕉・蕪村 春夏秋冬を詠む 秋冬編』(三弥井古典文庫,2016)に
〈・・・日本の土俗的信仰として月を見るのを忌む風習もあった。『竹取物語』で、かぐや姫が月を
見て物思いにふけっていた折に「月の顔を見るは、忌むこと」と制せられるのを始め、『源氏物語』
や『更級日記』などにも、月は忌むべきものとする考え方が見出される。〉とあるから(⌒~⌒)ニヤニヤ
上坂信男(全訳注)『竹取物語』(講談社学術文庫,1978)によれば、その件は「宿木」らしいので、
娘の「六の君」との婚儀の夜なのに匂宮が来ないので右大臣の夕霧が息子の頭中将を使者に出すと、
匂宮は「中の君」と一緒にいたという「宿木」の当該件を本書401~402頁の現代語訳で引く(⌒~⌒)
・・・/宮[=匂宮]は、「今宵から六の君に通うのだということを、なまじこの
女君[=中の君]には知られないほうがよかろう。不憫なことだし」とお思いになり、
宮中においでだったのだが、そちらから二条院の女君[=中の君]にお手紙をおあげ
になった。そのご返事がどうあったのだろうか、やはりこのお方をほんとにいとしい
お気持から、そっと二条院にお越しになったのだった。そのいかにもいじらしい
女君のご様子を見捨ててお出ましになる気にもなれず、おいたわしいので、あれこれと
お心変りのありえぬことを約束し慰めて、ごいっしょに月を眺めていらっしゃるところ
なのであった。女君はこれまでも何かにつけて悲しく思い悩むことが多かったのだけれど、
どうかしてそれをおもてには見せまいと堪え忍び堪え忍びして、さりげないさまを
よそおっておられるので、六条院からお使者[=頭中将]とあっても格別気にとめない
様子で、おっとりふるまっていらっしゃる御面持が、まったくいじらしく思われる。/
宮[=匂宮]は、中将[=頭中将]がお迎えにまいられたことをお聞きになって、さすがに
そちらのお方[=六の君]のこともお気の毒に思われるので、お出かけになろうとして、
女君に、「今じきに帰ってまいりましょう。一人で月をごらんになってはいけませんよ。
あなたを残していく私も、心はあちらになくとてもつらいのです」とお申しおきになって、
・・・
匂宮の台詞「ひとり月な見たまひそ」(本書402頁)に付してる頭注10(本書402頁)も引く(@_@;)
[本書402頁の]一~二行「もろともに月を…[ながめておはするほどなりけり]」
に照応。月下にひとり残される中の君の悲嘆ぶりを不憫なものと想像し、物思いの
無意味さを諫める。月を見るのを忌む発想は、「月明ニ対シテ往事ヲ思フコト
莫カレ 君ガ顔色ヲ損ジ君ガ年ヲ減ゼン」(白氏文集・巻十四・贈内)などの中国
伝来の思想で、和歌にも多い。「ひとり寝のわびしきままに起き居つつ月をあはれと
忌みぞかねつる」(小町集)、「大方は月をもめでじこれぞこの積れば人の老と
なるもの」(古今・雑上 業平)。→付録五二五ページ。
「付録五二五ページ」とは巻末の今井源衛「漢籍・史書・仏典引用一覧」で、本書525頁から(@_@;)
/丸山氏は『白氏文集』巻十四、「贈内」(内ニ贈ル)を指摘する。/
・・・
・・・『千載佳句』・・・下、惑月に・・・採られている。『竹取物語』に「翁、
『月な見たまひそ、これを見たまへば、物思すけしきはあるぞ』といへば」とあり、
『後撰和歌集』恋二に、
月をあはれといふは忌むなりといふ人ありければ
よみ人しらず
独り寝のわびしきままに起きゐつつ月をあはれと忌みぞかねつる
とある。頭注なども含めて、中国の思想に由来するものか。/
「月を見るのを忌む発想は・・・中国伝来の思想」と断定するが、植木久行『唐詩歳時記』(講談社
学術文庫,1995)は否定(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-05-02 )(@_@;)
そもそも本書は「須磨」で光源氏が月の顔を見ていることを見落としてるようだし、この当該件にも
「もろともに月をながめておはするほどなりけり(ごいっしょに月を眺めていらっしゃるところなの
であった)」(現代語訳は本書401頁)とあることとの整合性に思い至らない点も情けないね(@_@;)
石田穣二&清水好子(校注)『新潮日本古典集成 源氏物語 七』(新潮社,1983)は、流石と言うか、
「もろともに」との整合性を図ろうとして、同書178頁の頭注1で次のように読み解いていた( ̄◇ ̄;)
そのうちすぐにもお側に帰って来ましょう。お一人で月をご覧になってはいけませんよ。
前に「もろともに月をながめて……」とあった。当時、女が一人で月を見ることを忌む
俗信があった。その理由についてはなお考えるべきである。「独り寝のわびしきままに
起きゐつつ月をあはれと忌みぞかねつる」(『後撰集』巻十恋二、月をあはれといふは
忌みなりといふ人のありければ 読人しらず。『小町集』にも)、「ある人、月の顔見る
は忌むことと制しけれども」(『竹取物語』)など。
「当時、女が一人で月を見ることを忌む俗信があった」の「女が一人で」は差別・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
「女が一人で」と限定することで、「もろともに」云々だけでなく「須磨」での光源氏のケースとも
辻褄は合うけどさ、その説明に説得力はナシオン主権だろう(@_@;) だけど、「その理由については
なお考えるべきである」とあるので、おそらく石田穣二&清水好子自身も納得してないかと(@_@;)
【読んだ本】
阿部秋生&秋山虔&今井源衛&鈴木日出男(校注・訳)『新編日本古典文学全集24 源氏物語⑤』(小学館,1997)
『源氏物語』の「須磨」に光源氏が月の顔を見ている描写&詠歌があることを昨日特記した理由は、
例えば、深沢眞二&深沢了子編『芭蕉・蕪村 春夏秋冬を詠む 秋冬編』(三弥井古典文庫,2016)に
〈・・・日本の土俗的信仰として月を見るのを忌む風習もあった。『竹取物語』で、かぐや姫が月を
見て物思いにふけっていた折に「月の顔を見るは、忌むこと」と制せられるのを始め、『源氏物語』
や『更級日記』などにも、月は忌むべきものとする考え方が見出される。〉とあるから(⌒~⌒)ニヤニヤ
上坂信男(全訳注)『竹取物語』(講談社学術文庫,1978)によれば、その件は「宿木」らしいので、
娘の「六の君」との婚儀の夜なのに匂宮が来ないので右大臣の夕霧が息子の頭中将を使者に出すと、
匂宮は「中の君」と一緒にいたという「宿木」の当該件を本書401~402頁の現代語訳で引く(⌒~⌒)
・・・/宮[=匂宮]は、「今宵から六の君に通うのだということを、なまじこの
女君[=中の君]には知られないほうがよかろう。不憫なことだし」とお思いになり、
宮中においでだったのだが、そちらから二条院の女君[=中の君]にお手紙をおあげ
になった。そのご返事がどうあったのだろうか、やはりこのお方をほんとにいとしい
お気持から、そっと二条院にお越しになったのだった。そのいかにもいじらしい
女君のご様子を見捨ててお出ましになる気にもなれず、おいたわしいので、あれこれと
お心変りのありえぬことを約束し慰めて、ごいっしょに月を眺めていらっしゃるところ
なのであった。女君はこれまでも何かにつけて悲しく思い悩むことが多かったのだけれど、
どうかしてそれをおもてには見せまいと堪え忍び堪え忍びして、さりげないさまを
よそおっておられるので、六条院からお使者[=頭中将]とあっても格別気にとめない
様子で、おっとりふるまっていらっしゃる御面持が、まったくいじらしく思われる。/
宮[=匂宮]は、中将[=頭中将]がお迎えにまいられたことをお聞きになって、さすがに
そちらのお方[=六の君]のこともお気の毒に思われるので、お出かけになろうとして、
女君に、「今じきに帰ってまいりましょう。一人で月をごらんになってはいけませんよ。
あなたを残していく私も、心はあちらになくとてもつらいのです」とお申しおきになって、
・・・
匂宮の台詞「ひとり月な見たまひそ」(本書402頁)に付してる頭注10(本書402頁)も引く(@_@;)
[本書402頁の]一~二行「もろともに月を…[ながめておはするほどなりけり]」
に照応。月下にひとり残される中の君の悲嘆ぶりを不憫なものと想像し、物思いの
無意味さを諫める。月を見るのを忌む発想は、「月明ニ対シテ往事ヲ思フコト
莫カレ 君ガ顔色ヲ損ジ君ガ年ヲ減ゼン」(白氏文集・巻十四・贈内)などの中国
伝来の思想で、和歌にも多い。「ひとり寝のわびしきままに起き居つつ月をあはれと
忌みぞかねつる」(小町集)、「大方は月をもめでじこれぞこの積れば人の老と
なるもの」(古今・雑上 業平)。→付録五二五ページ。
「付録五二五ページ」とは巻末の今井源衛「漢籍・史書・仏典引用一覧」で、本書525頁から(@_@;)
/丸山氏は『白氏文集』巻十四、「贈内」(内ニ贈ル)を指摘する。/
・・・
・・・『千載佳句』・・・下、惑月に・・・採られている。『竹取物語』に「翁、
『月な見たまひそ、これを見たまへば、物思すけしきはあるぞ』といへば」とあり、
『後撰和歌集』恋二に、
月をあはれといふは忌むなりといふ人ありければ
よみ人しらず
独り寝のわびしきままに起きゐつつ月をあはれと忌みぞかねつる
とある。頭注なども含めて、中国の思想に由来するものか。/
「月を見るのを忌む発想は・・・中国伝来の思想」と断定するが、植木久行『唐詩歳時記』(講談社
学術文庫,1995)は否定(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-05-02 )(@_@;)
そもそも本書は「須磨」で光源氏が月の顔を見ていることを見落としてるようだし、この当該件にも
「もろともに月をながめておはするほどなりけり(ごいっしょに月を眺めていらっしゃるところなの
であった)」(現代語訳は本書401頁)とあることとの整合性に思い至らない点も情けないね(@_@;)
石田穣二&清水好子(校注)『新潮日本古典集成 源氏物語 七』(新潮社,1983)は、流石と言うか、
「もろともに」との整合性を図ろうとして、同書178頁の頭注1で次のように読み解いていた( ̄◇ ̄;)
そのうちすぐにもお側に帰って来ましょう。お一人で月をご覧になってはいけませんよ。
前に「もろともに月をながめて……」とあった。当時、女が一人で月を見ることを忌む
俗信があった。その理由についてはなお考えるべきである。「独り寝のわびしきままに
起きゐつつ月をあはれと忌みぞかねつる」(『後撰集』巻十恋二、月をあはれといふは
忌みなりといふ人のありければ 読人しらず。『小町集』にも)、「ある人、月の顔見る
は忌むことと制しけれども」(『竹取物語』)など。
「当時、女が一人で月を見ることを忌む俗信があった」の「女が一人で」は差別・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
「女が一人で」と限定することで、「もろともに」云々だけでなく「須磨」での光源氏のケースとも
辻褄は合うけどさ、その説明に説得力はナシオン主権だろう(@_@;) だけど、「その理由については
なお考えるべきである」とあるので、おそらく石田穣二&清水好子自身も納得してないかと(@_@;)
タグ:古典
確か、「ドカベン」も元々は柔道漫画・・・・
月に向かって打ったのは大杉勝男(ヤクルト)と(笑)。
by tai-yama (2022-05-06 00:02)
作者も設定を忘れるほどの長編、そこまで来たら読者のほうが理解していそうですね(^^;)
by ナベちはる (2022-05-06 01:12)
『ドカベン』のソレについては、
ta-yama様、長篇あるあるとは
関係がないような気が(^_^;)
by middrinn (2022-05-06 05:08)
熱心な愛読者から、正誤表とかを、
ナベちはる様、送られたり(^_^;)
by middrinn (2022-05-06 05:16)
女も男も関係無く。月が明るく見えている時間帯は、
特に昼の長い今の季節には。睡眠を充分に取った方が
健康には良く、たとえばコロナには罹りにくいです。
by df233285 (2022-05-07 08:15)
人間は夜間は眠るように出来ているはずで、月を見る
という行為は実は自然の摂理に反してるのかも(^_^;)
by middrinn (2022-05-07 08:53)