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220320読んだ本

「オヤジギャル」を流行語にした漫画家「中尊寺ゆつこ」の旧姓は藤原で事務所の名は「金色堂」
とwikiにあるが、たしか漫画の中では「オフィス コンジキドー」という表記だった記憶が(^_^;)

【読んだ本】

斉藤利男『平泉 よみがえる中世都市』(岩波新書,1992)所蔵本

さて、さて、さ~て!奥富敬之『吾妻鏡の謎』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー,2009)が引用した
『吾妻鏡』の記述の中に陸奥国について白河関以北ではなく「白河関以東」と記されてたのに着目し
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-02-16 )、応地利明『絵地図の世界像』
(岩波新書,1996)にも延長5(927年)撰進の『延喜式』巻16の追儺祭の祭文に「四方之堺」=四至が
明記されて「東方陸奥」とあり、「外浜は、津軽半島基部の日本海沿岸地方をさす古称で、中世初期
のころには日本国家の東の境界と考えられてきた。」として『源平盛衰記』『曾我物語』の各記述が
引用されていたので(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-18 )、どうやら
中世においても方角は『魏志倭人伝』と同様に北は東と認識されていたかと〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)

この「外浜」は〈・・・奥州藤原氏の時代から、日本の国土(率土)のつきるところという意味で、
「率土[そと]が浜」=「外浜」とよばれ、「日本国」の東の境界とみなされていた。〉と本書でも
説明されている(^^) 本書でよく引用される基本史料の〈「寺塔已下注文[じとういかちゅうもん]」
(以下「文治注文」と略称する)とは、文治五年(一一八九)九月十七日、源忠已講[げんちゅうい
こう]・心蓮[しんれん]大法師など中尊寺・毛越寺僧侶の代表が、源頼朝の求めに応じて提出した
「清衡已下三代造立の堂舎の事」に関する報告書である。〉由(^^) 『吾妻鏡』の同日条に収められて
いるそうで、この「文治注文」の「関山中尊寺の事」の条に中尊寺(山号は「関山[かんざん]」)
の始まりについての次の記述があると本書(⌒~⌒)

    /[藤原]清衡、[奥]六郡を管領するの最初に、これを草創す。まず白河関より
    外浜に至るまで、廿余ヶ日の行程也。その路の一町ごとに笠率都婆[かさそとば]
    を立て、その面に金色の阿弥陀像を図絵す。当国の中心を計り、山頂の上に一基の
    塔を立つ。また寺院の中心に多宝寺あり、釈迦・多宝像を左右に安置す。その中間
    に関路を開き、旅人往還の道となす。/

そして、この「文治注文」の同条の記述を本書は次のように解説してる〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    ・・・「文治注文」は、中尊寺がそもそもどのような目的で建てられたかを
    簡潔に語っていた。この寺の建つ場所は、奥州の西の入口白河関と、東のはて
    外浜[そとがはま](津軽半島の陸奥湾ぞいの地域)との中間にある。清衡は、
    白河関と外浜のあいだをつらぬく幹線道路「奥大道」の一町ごとに笠卒塔婆を
    立て、その面に金色の阿弥陀像をえがき、しかも奥州の中央にあたる関山丘陵
    上に、奥大道にまたがって中尊寺を建立した。そして、この中尊寺の中心に
    「多宝寺」を建てて、釈迦・多宝両像を安置したうえ、両像のあいだに「関路」
    をひらき、旅人の往還する道としたというのである。・・・

凄いアイデアだ( ̄◇ ̄;) 本書は〈[藤原]清衡の意識からすれば、奥州の中心に中尊寺を建立し、
それによって長年の戦乱に苦しんだ奥州の「浄化」がはかられる。そこには、まさしく〝奥州の宗教
世界の中心たる中尊寺〟という発想があった。〉として、そもそも寺号の「中尊」の解釈には色々な
説があり定説は無いが、〈だが「中尊」の原義から考えれば、〝仏の世界の中心〟という意味がこめ
られていたことは確かで、そこに奥州の中心という意図が加わっていたとしても不思議ではない。〉
とする(^^) 白河と外浜のちょうど真ん中に中尊寺があって、しかも、ソコに意図的に建立したとは、
藤原清衡、マジ尊敬(⌒~⌒) でも、この中世の文書「文治注文」では外浜を「日本国家の東の境界」
「東のはて」などといった形容はしてないじゃん?と思われるかもしれない(@_@;) でも、「・・・
奥州藤原氏を滅ぼして厨川(現在の盛岡市)まで北進した[源]頼朝が、平泉に帰還したのちの文治
五年九月二十七日、かつて安倍頼時の本営がおかれていた衣河の遺跡をたずねたときの記事・・・」
が『吾妻鏡』にあって、ソレを本書は引いているv( ̄∇ ̄)ニヤッ

    /二品(頼朝)、安倍頼時 本名頼義也 の衣河の遺跡を歴覧し給う。郭土空しく残り、
    秋草とざして数十町、礎石いずこに在りや。旧苔埋もれて百余年。頼時国郡を掠領
    するの昔、この所を点じて家屋を搆う。(中略)西は白河関を界すること、十余日の
    行程たり。東は外浜に拠るや、また十余日。その中央に当りて、遥かに関門を開き、
    名づけて衣の関という。あたかも函谷[関]の如し。・・・

奥州の「西」の境「界」が「白河関」とある以上は「東」の境界は「外浜」の意だろうし、陸奥国は
「白河関以東」というのは前掲『吾妻鏡の謎』の誤植でも『吾妻鏡』の誤記でもないわけだね(^_^;)

ちなみに、芸術新潮2011年10月号の「世界文化遺産登録記念 大特集 奥州平泉とみちのくの仏たち」
の「第一部 黄金の都、平泉 栄枯盛衰ものがたり」で大矢邦宣が「・・・清衡はなぜ平泉を本拠地に
選んだのですか?」という問いに次のように答えているが、如何なものだろうC= (-。- ) フゥー

    ・・・決定的な要因になったのは、この地が「みちのくの中央」であり、「みちのくの
    南北の境界」であったことです。『吾妻鏡』によれば、清衡は、平泉がみちのくのほぼ
    中央に位置していたことを知っていたらしい。そのために最初に行なったのが、平泉が
    みちのくの中央であることを示すお寺を建立することでした。『吾妻鏡』は、南の白河
    関(現・白河市)から北の外ヶ浜(現・青森市付近)まで、みちのくを南北に貫く道
    (奥大道、陸奥路)[右頁上]の一町(約109m)ごとに金色の阿弥陀像を描いた
    卒塔婆を立て、その中央地点の丘の頂上に一基の塔を建てて「中尊寺」としたと伝えて
    います。事実、白河関が北緯37度、外ヶ浜が北緯41度、そして中尊寺が39度、まさに
    みちのくのど真ん中になります。/

タグ:歴史 地理
コメント(4) 
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コメント 4

ナベちはる

地図らしい地図が無かったはずの当時、中尊寺が「みちのくのど真ん中」に建てられたというのはかなり凄いことなのではと思います\(◎o◎)/!!
by ナベちはる (2022-03-21 01:17) 

middrinn

ですよねぇ(^_^;) 伊能忠敬もびっくりみたいな凄いことだと思いました(^_^;)
by middrinn (2022-03-21 05:23) 

tai-yama

実は"西"も、南と認識されていたり(笑)。
タッチの浅倉南は、鎌倉時代だと浅倉東、そのまんま東は鎌倉時代
の解釈だとそのまんま北。混乱しそう・・・
by tai-yama (2022-03-21 22:55) 

middrinn

井上光貞『日本国家の起源』(岩波新書,1960)に「魏志はここで
九十度だけ右旋回に方角を誤っているから、倭人伝に南とあるのは
東であり、・・・」とあるように、西も南という地理的認識(^_^;)
by middrinn (2022-03-22 06:32) 

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