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220313読んだ本

我が蔵書の弱点発覚ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 地名辞典がナシオン主権(ノ;ω;)ノ ~┻┻ (/o\) ミドリン ナカナイデー!!

【読んだ本】

犬養孝『万葉の旅(中)近畿・東海・東国』(現代教養文庫,1964)所蔵本
犬養孝『万葉の人びと』(新潮文庫,1981)所蔵本

渡辺実『大鏡の人びと 行動する一族』(中公新書,1987)が面白い対比(原文ママ)をしてた(^_^;)

    ・・・修験道で名高い熊野へも出かけたが、途中で病気になった。「千里の浜と
    いふ所」だったとあり、和歌山県の岩代の浜の辺であろうとされる。だとすれば
    遠い昔、斉明天皇の四年(六五八)、有間皇子が謀反の嫌疑をかけられて捕えられ、

      岩代の浜松が枝をひき結び まさきくあらばまたかへり見む

    と、死の予見と生への欲求とを歌った浜のあたりである。その浜辺で花山院は

      浜づらに石のあるを御枕にて、御とのごもりたるに、

    という、帝位を極めた方とは思えぬ有様で、病む肉体を横たえた。供はほとんど
    いないのであろう。辺りに漁夫が塩を焼く煙が立ちのぼる。院の心細さはその煙に、
    わが屍を焼く煙を見る。

      たびのそら夜半の煙とのぼりなば あまの藻塩火たくかとや見ん

    生きたい、と叫んだ有間皇子の響きがここにないのは、謀られて命を奪われようと
    する理不尽に歯がみする者と、自ら帝位を捨てて一人になった者との違いであろう。
    それに花山院とて、やはり「もののあはれ」の時代になろうとしている頃の人なの
    である。/・・・

『西行物語(絵巻)』の「千里[ちさと]の浜」の場面は、この『大鏡』で描かれていた花山院の話
と同様に「熊野信仰にともなう共通の説話の型によるもの」という桑原博史(全訳注)『西行物語』
(講談社学術文庫,1981)の指摘(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-07
を受け、花山院に再び夢中(^_^;) 花山院の「千里の浜」の話で有間皇子の「岩代」に言及していて、
爛漫亭様から先日頂戴したコメントとともに興味深い指摘だが、「供はほとんどいないのであろう」
というのは疑問も(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-08 )、渡辺実が
「千里の浜」は「岩代の浜の辺であろう」というのはどうなのか、両者の関係がチト気になる(^_^;)
『枕草子』にも「千里の浜」は出てくるが、〈清少納言が「広う思ひやらる」と言っているように、
実見した名所ではないが、言葉の意味の面白さから取り上げたものと考えられる。〉としながらも、
萩谷朴『枕草子解環 四』(同朋舎出版,1983)は語釈に次のように記している(^_^;)

    〇千さとのはま 千里の浜。紀伊国日高郡岩淵郷。そのままの地名は現存しないが、
    岩淵郷から南部郷にかけての岩代の浜を言う。・・・

萩谷朴は『伊勢物語』『大鏡』『後鳥羽院熊野御幸記』の各記述にも言及しているが、「千里の浜」
=「岩代の浜」としている(^_^;) 他方で、片桐洋一『伊勢物語全読解』(和泉書院,2013)の語釈は

    ◇紀の国の千里の浜=和歌山県日高郡みなべ町の海岸。今も千里の浜と呼ばれている。

ネットで調べた限りでは、今も「千里の浜」という「地名は現存」するが、「せんり」と読むので、
「そのままの地名は現存しない」ようである(^_^;) 保坂弘司『大鏡全評釈 上巻』(學燈社,1979)は
語釈で「紀伊国、現在の和歌山県日高郡岩代付近の海岸。」とし、掲載している「千里の浜・花山院
歌碑」の写真のキャプションは次の通り(^_^;)

    岩代は万葉集の有間の皇子に因む“結びの松”で知られているが,その国道42号線から
    山越えして南下したところに“千里の浜”があり、花山院歌碑がある。碑の前の丸い石
    が花山院の御枕石と伝えられている。

「結びの松」からは「千里の浜」は離れているように読めるが、有間皇子は「岩代の浜松が枝を」と
詠んだわけだから「結びの松」は「岩代の浜」にあるように思えるのだけど、どうなるのかな(^_^;)
犬養孝の『万葉の旅(中)近畿・東海・東国』は「磐代」と「結び松の碑」を立項しており、歌碑は
移建の前も後も海岸から離れていたように読めるが、「岩代の断崖の松原」とあるし、掲載されてる
写真を見ても松は海岸沿いにありそう(^_^;) 犬養孝『万葉の人びと』の「第八回 有間皇子(二)」
は「今ここ[=岩代]には[ともに有間皇子の詠歌である]〝家にあれば〟の歌碑(徳富蘇峰筆)と
〝磐代の浜松が枝〟の歌碑(澤瀉久孝筆)とがここの海岸のそばにあります。」と〆るが、「ここの
海岸」とは「岩代の浜」かな(^_^;) なお、両書とも「千里の浜」や花山院に対する言及は無い(^_^;)
「岩代」は歌枕として歌に詠まれているけど、「千里の浜」が詠まれた歌は見当たらなかった(^_^;)
熊野権現の九十九王子でも、「岩代王子」と「千里[せんり]王子」とに分かれている(^_^;) wikiの
「九十九王子(みなべ町)」の項に「千里の浜は中世熊野御幸期には幅広い砂浜であったが、1331年
(元弘元年)の地震で地形が変わってしまったと伝えられる(『太平記』)。」とあり、現在の地形
は決定打にはならないみたい(^_^;) 結局、資料不足で答えは出なかった〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

[追記220327]

梶原正昭&山下宏明(校注)『平家物語(四)』(岩波文庫,1999)の「・・・千里の浜の北、
岩代の王子の御前にて、・・・」という件の「千里の浜」の注で「現和歌山県日高郡南部町、
東岩代川の河口から目津崎のでの約一・二キロメートルの海浜。」と特定されてたヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

・花山院が播磨国で月の光の明るさに都を恋しがる歌を詠んでいるのが意味深に思えてしまう(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-10-28

・花山天皇は清涼殿から眺める月こそ素晴しいという和歌を詠んでいる〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-10-29

・よく知られている花山天皇が藤原道兼に騙されて退位・出家するシーン、誤訳ではないかと(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-10-31

・パシリを命ぜられただけの藤原道長は花山院退位事件の陰謀を事前に知っていたのだろうか(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-09
タグ:和歌 歴史 地理
コメント(6) 
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コメント 6

爛漫亭

 地形的には、北から南に岩代、千里浜と
一続きの海岸です。千里浜のあたりは砂浜が
広くなっています。今は千里もありませんが。
by 爛漫亭 (2022-03-13 22:39) 

tai-yama

地名辞典がないとは!それは致命的・・・・
もし千里の浜があったら「花山院が枕にした石」とかもありそう(笑)。
by tai-yama (2022-03-13 23:06) 

ナベちはる

「地名辞典がない」というまさかの弱点、早急に対策を講じないといけないですね(◎_◎;A)
by ナベちはる (2022-03-14 01:36) 

middrinn

有間皇子の歌碑が花山院のからも
爛漫亭様、見えたりして(^_^;)
by middrinn (2022-03-14 07:13) 

middrinn

『角川日本地名大辞典』は全48冊(別巻2冊)、平凡社
『日本歴史地名大系』は全48巻(索引2巻)ありますし、
tai-yama様、これらなら出てるかもしれません(^_^;)
by middrinn (2022-03-14 07:14) 

middrinn

吉田東伍『大日本地名辞書』全8巻は地名辞典として必携ですけど、
ナベちはる様、古本でも10万円以上(^_^;) 国立国会図書館のデジ
タルコレクションになってますが、冊子体の方が使い易いし(^_^;)
by middrinn (2022-03-14 07:16) 

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