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220116読んだ本

新聞の訃報記事は、いいところだらけの人物ように描いて死を惜しむ〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
完全無欠の人間なんていないし、ちょっといい話を最後に付け加える程度にオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

【読んだ本】

森田悌(全現代語訳)『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)

日本古代史の泰斗である坂本太郎は名著『史書を読む』(中公文庫,1987→3版1992)で「『後紀』の
人物伝は長所と共に必ず短所を挙げ、批評は辛辣をきわめている。」と指摘し、実際、例えば、本書
108頁の延暦15年(796年)秋7月乙巳(16日)条の藤原継縄の薨伝も次の記述を含んでいる( ̄◇ ̄;)

    ・・・継縄は文武の官を歴任して、朝臣の首座の重職に就き、曹司(役所)に
    詰める一方で朝座で政務に従事した。遜[へりくだ]り慎み深い態度で自制し、
    政績ありとの評判はなく才識もなかったが、世の批判を受けることがなかった。/

桓武天皇の寵臣の右大臣に「政績ありとの評判はなく才識もなかった」は厳しいけど、本書の他の人
に対する評を見る限りでは柔らかい方だし、もしかしたらこれでも配慮したものだったりして(^_^;)

チト気になったのは本書163~164頁に載ってる延暦17年(798年)3月丁未(27日)条である(@_@;)

    僧侶である明一[みょういつ]が死去した。行年[こうねん]七十一。俗姓は和仁部臣
    [わにべのおみ]、大和国添上[そうのかみ]郡の人で、東大寺に住した。法師は仏教
    をよりどころとしてその教えを広め、教説を修得してその名は天下に知られた。まことに
    仏教の優れた教師であり、仏の大宝と言うべき僧侶であった。晩年になると、近くに
    世話をする婦人(後房)を置いた。簷[のき]の花に凋[しぼ]んでも四方を照らす色が
    あるごとく、老いてなお輝きがあり、枯れかかった蘭葉に十歩先まで匂う香りがある
    ごとく、華やかさがあった。さらに明一の才は世の水準を超え、器は宗師(尊敬される
    指導的僧侶)たるに堪えるものだったのである。

いいところだらけのように思えるが、これでも「長所と共に必ず短所を挙げ」ているのかな(@_@;)
wikiは「晩年になると、近くに世話をする婦人(後房)を置いた」を「短所」の指摘と解してるが、
黒板伸夫&森田悌(編)『訳注日本史料 日本後紀』(集英社,2003)の頭注は「簷花[えんか]全て
凋むも尚お四照の色を含み、蘭葉半[なかば]落つるも亦十歩の芳[ほう]を送る」を前半は山海経
・南山経、後半は宗懐の春望詩を踏まえたものと指摘した上で「・・・老いた明一の様子を比喩的に
示している。・・・」と解しており(同書127頁)、「後房」、すなわち、「梵嫂。僧侶の世話をする
婦人」(同書127頁)についても否定的には捉えていないと思われるけど、どうなんだろうか(@_@;)

本書は索引が無いのが不満だが、同書の「索引」も「明一」の項は「125」とあるだけで使えぬ(+_+)
「器は宗師(尊敬される指導的僧侶)たるに堪えるものだった」と称えられた明一だが、悪役として
前にも引いた行賀の卒伝(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-02-20 )に登場
しており、本書286頁から延暦22年(803年)3月己未(8日)の条を引く(@_@;)

    大僧都伝灯大法師位行賀が死去した。行年七十五。俗姓は上毛野公
    [かみつけぬのきみ]、大和国広瀬郡の人である。十五歳のときに出家し、
    二十歳で具足戒を受け、二十五歳のとき、入唐留学僧[にっとうるがくそう]
    となり、唐に三十一年間滞在して唯識・法華両宗を学んだ。帰国すると
    その学問を試みることになり、東大寺僧明一が難しい質問をしたところ、
    はなはだ惑い解答することができず、明一に「日本と唐で生活の資を受けながら、
    学識は浅はかである。どうして朝廷の期待に背き、学問を身につけて
    帰らなかったのか」と罵られた。行賀ははなはだ恥じいり、とめどなく涙を流した。
    これは長らく異郷に住み、ほとんど日本語を忘れたためであった。
    千里の長途を行く者にとり、一度躓いたところでたいしたことではなく、
    深林にわずかな枯れ枝があっても影が薄くなることはないものである。
    行賀に学問がないとすれば、在唐時代に百人もの僧侶が講説・論議を行う場で
    第二位の座に着くことができたであろうか。行賀の著作に『法華経疏
    [ほけきょうしょ]』『弘賛略[ぐさんりゃく]』『唯識僉議[ゆいしきせんぎ]』
    等四十巻があり、仏教経典や論疏五百余巻を書写してもたらした。朝廷はそれにより
    弘く利益[りやく]することを喜び、僧綱[そうごう]に任じ、詔りを下して
    行賀に三十人の弟子を付し、学業を伝えさせることにした。

何度読んでも凄いエピソード( ̄◇ ̄;) 井上靖が「僧行賀の涙」という短篇小説にしたらしいね(^^)
流石、ノーベル文学賞を狙ってたと言われるだけあ・・ヘ(__ヘ)☆\(^^; にしても、この卒伝も「長所
と共に必ず短所を挙げ」ているのかしら(@_@;) 「長所」だけのような気がするんだけどね(@_@;)
あと、「長途の一躓[いっち]、豈[あ]に千里の行を妨げんや。深林の枯枝[こし]、何ぞ万畝
[ばんぽ]の影を薄くせんや。」(黒板伸夫&森田悌・前掲書237頁)には典拠があるのかな(@_@;)

本書では375頁に載ってる延暦24年(805年)11月丁丑(12日)条の壱志濃王の薨伝も好き(〃'∇'〃)

    大納言正三位兼弾正尹壱志濃王が死去した。詔りして従二位を贈った。壱志濃王は
    田原天皇(施基皇子)の孫で、湯原親王の第二子である。生まれつき尊大で礼法を
    守らず、飲酒するとよく喋り、よく笑った。程よく酔うたびに桓武天皇に向かい
    昔のことを語り、天皇はこれを楽しんだ。行年七十三。

「質性[ひととなり]矜然[きょうぜん]として、礼度を護らず」(黒板伸夫&森田悌・前掲書319頁)
とあるので、酔えば桓武天皇にも暴言を吐きそうなのにね(^_^;) 桓武天皇のちょっといい話かと(^^)
タグ:歴史
コメント(4) 
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コメント 4

tai-yama

自分が死んだ時、長所は・・・・無いな(笑)。
明一からの質問の件、実は答えられなかった件について恥じたのでは
なく「日本で偉そうにしているヤツ」に罵倒されたことが悔しかったり。

by tai-yama (2022-01-16 22:51) 

ナベちはる

訃報記事は、良いことや印象が強い出来事に強くスポットライトが当たりますよね(^^;
by ナベちはる (2022-01-17 01:31) 

middrinn

バイクに跨り観光客がフツー行かないところにも立ち寄った
tai-yama様は、お姉さん目当てにガラケーを捨てた(^_^;)
by middrinn (2022-01-17 05:13) 

middrinn

それらは思い出なんでしょうね(^_^;) 生前は批判ばかりされてた人は、
ナベちはる様、亡くなる前に書いてあげればいいのにと思います(^_^;)
by middrinn (2022-01-17 05:33) 

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