SSブログ

210704読んだ本

読書の厄介なところは、「右京」で「カミカゼ」しか思い浮かばぬことである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)

【読んだ本】

朧谷寿『清和源氏』(教育社歴史新書,1984)所蔵本

チンタラ伊勢物語の第二回(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-23 )で
読んだ『伊勢物語』第二段、女が住んでいる「西の京」を手元の各注釈書は次のように解説(@_@;)

・阿部俊子(全訳注)『伊勢物語(上)』(講談社学術文庫,1979)

    都の中央を南北に走る朱雀大路の西の部分。平安京ではおおよそ桂川に至るまでの間で、
    比較的土地が低く、東の京にくらべて開発がおくれていた。

・福井貞助(校注・訳)『伊勢物語』(片桐洋一&福井貞助&高橋正治&清水好子[校注・訳]
 『新編日本古典文学全集12 竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語』[小学館,1994]所収)

    平安都城の中央を南北に走る朱雀大路から西半分をいう。東の京が先に開け、
    西の京はさびれていた。

・石田穣二(訳注)『新版 伊勢物語 付現代語訳』(角川文庫,1979)

    湿地が多く、当初から都市としての発展は遅れていた。

・森野宗明(校注・現代語訳)『伊勢物語』(講談社文庫,1972)

    京の中央を通る朱雀大路の西の地帯で右京ともいう。反対側の東の京、左京にくらべ
    湿潤地帯が多く、発展がおくれていた。貴族の邸宅は、東の京の北半分に集中化していた。

・渡辺実(校注)『新潮日本古典集成 伊勢物語』(新潮社,1976)

    平安京の中央を貫く朱雀大路から西半分。右京とも。左京(東の京)に比べ土地が低く、
    「人の家さだまる」につれ、平安京のにぎわいは左京中心になっていった。

渡辺実のは、第二段の物語の舞台が「平城の京をはなれ、この京は人の家さだまらざりける時に」と
設定されているので、「西の京」は一度も「にぎわ」うことは無かったということになるし、斯くも
各注釈書の解説が一致してるので、「西の京」=さびれた地域と刷り込まれてしまった次第(@_@;)

それゆえ、『大鏡』の鶯宿梅の説話で紀貫之女の家が「西京」にあったとしているのが気になったし
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-01-15 )、更には『為氏筆本貫之集』に
自分の家を「あやしの所」と書いていることから、紀貫之は零落して「西の京」にいたのかもなどと
妄想してみたりもした(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-02-17 )(@_@;)

池田亀鑑『平安朝の生活と文学』(角川文庫,1964)を今日たまたま披いたら、次の記述が( ̄◇ ̄;)

    /平安京の設計はだいたい右のようでしたが、実際には、設計そのままのように
    道路が完備し、それに人家がぎっしりと軒を並べて繁栄していたわけではありません。
    八条・九条のあたり、ことに右京は古来西の京とよばれ、荒涼とした田畑で、
    人家はごくまれでした。『本朝文粋』に載せられた慶滋保胤の有名な『池亭記』に、
    西の京は人家ようやくまれとなり、ほとんど廃墟に近いというようなことが
    述べられており、また『源氏物語』夕顔の巻にも、玉鬘が西の京のような淋しい所で
    成人することを侍女が悲しむ記事があり、『伊勢物語』[第二段]にも、西の京の女
    のことを述べるところに「都のはじまりける時、奈良の都ははなれ、此の京は人の家
    いまだ定まらず」というふうにしるしています。また『大鏡』に「勅なればいとも
    かしこし鶯の云々」と一首の歌を短冊に書いて紅梅の枝に結びつけた貫之の女の有名な
    逸話が見えますが、この女も、淋しい西の京の名もない家に住んでいたのです。
    だいたいこういう記事によって右京のありさまを知ることができます。/・・・

池田亀鑑も貫之女が「西の京」に住んでいることに着目してたとは心強いなぁと思ったのも束の間、
本書をパラパラめくってたら、昔読んだ時に貼った付箋が目に入った∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?

    ・・・/[源]高明邸は、右京にあって朱雀院に東隣し、「華堂朱戸、竹樹泉石、
    誠にこれ象外の勝地」といった趣き深い屋敷であった。この家も高明の配流後に
    焼亡したが、その件について、「主人、事ありて左転し、屋舎火ありておのずから
    に焼く、……その後、主人帰ると雖も、重ねてつくろわず」とある。この一文は、
    平安京を語るさいに必ずといってよいほどに引かれる『池亭記』の一節であるが、
    作者の保胤は、右京の衰退の要素の一つに高明の西宮殿の廃忘をあげている。
    [安和2=969年の]安和の変後、十四年目のことである。/・・・

源高明が失脚した安和の変は冷泉天皇の時であり、紀貫之女の説話はその父の村上天皇の御代だし、
『伊勢物語』第二段が設定した物語の舞台は平安京に遷都したばかりの頃ゆえ更に昔ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

自分の妄想は棚に上げて、『伊勢物語』の各注釈書の解説は時代錯誤じゃんか!と呆れたら、流石、
片桐洋一『伊勢物語全読解』(和泉書院,2013)は次のように解説してたヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪

    平安時代の初期は、西京が賑わっていたが、しだいに東の方が栄えるように
    なって来た。『続日本後紀』承和九年(八四二)九月二十日の条には「・・・」
    とあって、承和の頃から東の市が賑わい始めたが、それ以前は西の市が賑わって
    いたことが知られる。

タグ:古典 地理 歴史
コメント(6) 
共通テーマ:

コメント 6

tai-yama

片山右京さんは富士山で遭難しても死ななかったカミカゼ。
東京も西の方はど田舎・・・
by tai-yama (2021-07-04 23:16) 

ぽ村

そういえばその後遭難も…って、上のtai-yama さんも言ってますねー
他はなかな完走できないレーサーという印象です

middrinn の知識や妄想(?)が迸ってそのうち筆を走らせて世に出るのではないか…ッ?!
とか思ってます(既に出ていたらすみません;)
by ぽ村 (2021-07-05 01:18) 

ナベちはる

「カミカゼ」以外の右京は、「相棒」ぐらいでしょうか…(^^;
by ナベちはる (2021-07-05 01:34) 

middrinn

神風の術のようなエッチ系まで、
tai-yama様は連想しそう(^_^;)
by middrinn (2021-07-05 07:38) 

middrinn

ティレルからベネトンに移籍してれば、という感じ(^_^;)
ぽムたん、このブログに書いてるようなジャンルとは全く
無関係の、ある研究領域では、凄くちっちゃな学術交流会で
日本代表に選ばれたこともあるけど進路を誤ったな(^_^;)
by middrinn (2021-07-05 07:47) 

middrinn

「相棒」の水谷豊を思い浮かべるのが、
ナベちはる様、一般的ですよね(^_^;)
by middrinn (2021-07-05 07:53) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。