210331読んだ本【バカチン】
読書の厄介なところは、専門家の短絡的な記述を鵜呑みにしがちなことである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
よくゴルフの練習に行くからといってゴルフが好きとは限らず、処世術・保身術・出世術かも(⌒~⌒)
【読んだ本(バカチン)】
黒板伸夫(日本歴史学会編集)『藤原行成』(吉川弘文館人物叢書,1994新装版)
藤原行成は公務をサボって道長邸に行った目的を日記『権記』に記してないが、作文会ではないかと
黒板伸夫は「推測」してる(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-28 )(^^)
公務をサボってまで参加した作文会とは何か、倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成「権記」(上)』
(講談社学術文庫,2011)の巻末の「用語解説」は次のように解説してる(同書473頁)(@_@;)
作文会[さくもんかい] 散文である「筆」に対して、詩や賦[ふ]などの韻文である
漢詩を作る会合。主に翌朝、披講が行なわれる。一条朝には
[ママ]道長主導で盛んに開かれた。
一条朝では「道長主導で盛んに開かれ」ているが、藤原道長より一条天皇「主導で盛んに開かれた」
ことを示す研究を倉本一宏(日本歴史学会編集)『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書,2003新装版)は
次のように紹介している( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
・・・/本間洋一氏によると、一条は村上天皇と並んで、王朝句題詩が形成され
盛行する時期にあたり、詩文の興隆に大きく寄与したとのことである(「『類題
古詩』(類聚句題抄)研究覚書」)。たしかに、一条はしばしば内裏において
作文会を主催し、道長と並んで、王朝文化の外護者としての側面を持っていた。
飯沼清子氏の集計によると、一条朝二十五年間に内裏において開かれた作文会は
四十六回、特に長保・寛弘年間に四十四回で、道長邸で開かれた三十九回を
上まわっている(「平安時代中期における作文の実態」)。/・・・
倉本一宏は『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)巻末の「おわりに」において
藤原道長は「作文好き」とし、「頻繁に主催している作文会は、自邸のみならず、内裏のものも主導
しているかのようである。」としているけど、「内裏のものも」一条天皇ではなく藤原道長が「主導
している」という推測には根拠があるのかな(@_@;) 根拠もなくテキトーに書き散らしてる感(^_^;)
暗数があるので断定は出来ぬが、一条院崩御後は道長邸の作文会の開催数が減少してるから、道長は
「漢詩がいたって好き」というより、一条朝の流行あるいは一条天皇の御趣味に道長が付き合ってた
だけの可能性が(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-10-19 )C= (-。- ) フゥー
さて、公務をサボって作文会参加となると、それほど藤原行成は詩文が好きなのだと受け止めたり、
黒板伸夫に至っては藤原行成について「彼の詩文の分野での活動が顕著なことや、またそれに長じて
いたことは、作文会(詩会)への参加が非常に多いこと、漢文の和歌序を作っている点などにも表わ
れている。」(本書265頁)としてるけど、「作文会(詩会)への参加が非常に多いこと」から詩文に
「長じていた」とするのは短絡的だろオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ! 一条天皇や藤原道長に気に入られよう
と下手なくせに参加していただけかもしれない(^_^;) 加えて、藤原行成は和歌の才は無いと言われる
わりにイヴェントで詠まれた和歌の中からちゃんと秀歌のみをピックアップして『権記』に記録して
たりするのに(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-21 )、参加した作文会
で素晴しい詩が作られても、『権記』に書いていないところをみると、詩文に対する見識が無いか、
そもそも興味すら無い可能性が(^_^;) 例えば、倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成「権記」(中)』
(講談社学術文庫,2012)389頁から寛弘2年(1005年)3月29日条および同年4月1日条を引く(^_^;)
二十九日、丁丑。 道長第射儀・作文会
左府の許に参った。射儀が行なわれた。また、作文会が行なわれた。
一日、戊寅。 旬平座
午剋の頃、左府(藤原道長)の許から帰った。内裏に参った。右衛門督(藤原斉信)が、
仰せを承って、平座の上卿を勤めた。/早朝、雨が降った。
この作文会については、黒板伸夫も「[寛弘2年=1005年]三月二十七日、内裏で敦康親王対面の儀、
ならびに脩子内親王着裳の儀が行われ、内親王は三品に叙せられる。」(本書159頁)云々と叙述した
後で次のような指摘をしている(本書160頁)(^_^;)
・・・/さてこの日、男女一宮の外舅[藤原]伊周は昇殿を聴[ゆる]され、
帰京後はじめて公卿の座に着いた。彼は前月「大臣の下、大納言の上」と
席次が決められている。その後道長邸で弓の遊びと詩会が行われたが、
ここでの伊周の作は人々の間に「毎句感あり、満座涙を拭う」(『小右記』)
という感動をよび起した。行成も参会しているが「また作文あり」と記すのみ
である。・・・
「この日」とは(前頁に記された)「三月二十七日」、「道長邸」の「詩会」も同日と読めるけど、
伊周が「昇殿を聴され」たのは3月26日だし、「詩会」は29日だよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
それはさておき、藤原行成が詩文に「長じていた」のなら、参加した作文会で作られた優れた詩文を
『権記』に書き写したり一言あってもよさそうなのに、言及すら無く、あっさりした記述になってる
ということを、どう評価すべきか(^_^;) 「長じて」ない、興味ないの方が自然な気がするけど(^_^;)
なお、この藤原伊周の作った詩に、「満座は涙を拭った」「上下の者は涕泣しました。主人(道長)
感嘆しました。」などと『小右記』には記されているのに、その道長自身も『御堂関白記』で一言も
言及していないんだよね(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-28 )(^_^;)
「道長主導で盛んに開かれた」作文会も、道長の処世術・保身術・出世術だった可能性v( ̄∇ ̄)ニヤッ
高名な歌人が詠んだ歌に「多くは気に入らなかった」と文句を言うなど、道長は和歌に自信があった
みたい(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-10-13 )(^_^;) しかも、「多くは
気に入らなかった」から「私も、少々の和歌をここに入れた」として詠んだ歌は勅撰集入集だから、
道長の和歌の実力は凄い(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-11-15 )(^_^;)
よくゴルフの練習に行くからといってゴルフが好きとは限らず、処世術・保身術・出世術かも(⌒~⌒)
【読んだ本(バカチン)】
黒板伸夫(日本歴史学会編集)『藤原行成』(吉川弘文館人物叢書,1994新装版)
藤原行成は公務をサボって道長邸に行った目的を日記『権記』に記してないが、作文会ではないかと
黒板伸夫は「推測」してる(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-28 )(^^)
公務をサボってまで参加した作文会とは何か、倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成「権記」(上)』
(講談社学術文庫,2011)の巻末の「用語解説」は次のように解説してる(同書473頁)(@_@;)
作文会[さくもんかい] 散文である「筆」に対して、詩や賦[ふ]などの韻文である
漢詩を作る会合。主に翌朝、披講が行なわれる。一条朝には
[ママ]道長主導で盛んに開かれた。
一条朝では「道長主導で盛んに開かれ」ているが、藤原道長より一条天皇「主導で盛んに開かれた」
ことを示す研究を倉本一宏(日本歴史学会編集)『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書,2003新装版)は
次のように紹介している( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
・・・/本間洋一氏によると、一条は村上天皇と並んで、王朝句題詩が形成され
盛行する時期にあたり、詩文の興隆に大きく寄与したとのことである(「『類題
古詩』(類聚句題抄)研究覚書」)。たしかに、一条はしばしば内裏において
作文会を主催し、道長と並んで、王朝文化の外護者としての側面を持っていた。
飯沼清子氏の集計によると、一条朝二十五年間に内裏において開かれた作文会は
四十六回、特に長保・寛弘年間に四十四回で、道長邸で開かれた三十九回を
上まわっている(「平安時代中期における作文の実態」)。/・・・
倉本一宏は『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)巻末の「おわりに」において
藤原道長は「作文好き」とし、「頻繁に主催している作文会は、自邸のみならず、内裏のものも主導
しているかのようである。」としているけど、「内裏のものも」一条天皇ではなく藤原道長が「主導
している」という推測には根拠があるのかな(@_@;) 根拠もなくテキトーに書き散らしてる感(^_^;)
暗数があるので断定は出来ぬが、一条院崩御後は道長邸の作文会の開催数が減少してるから、道長は
「漢詩がいたって好き」というより、一条朝の流行あるいは一条天皇の御趣味に道長が付き合ってた
だけの可能性が(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-10-19 )C= (-。- ) フゥー
さて、公務をサボって作文会参加となると、それほど藤原行成は詩文が好きなのだと受け止めたり、
黒板伸夫に至っては藤原行成について「彼の詩文の分野での活動が顕著なことや、またそれに長じて
いたことは、作文会(詩会)への参加が非常に多いこと、漢文の和歌序を作っている点などにも表わ
れている。」(本書265頁)としてるけど、「作文会(詩会)への参加が非常に多いこと」から詩文に
「長じていた」とするのは短絡的だろオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ! 一条天皇や藤原道長に気に入られよう
と下手なくせに参加していただけかもしれない(^_^;) 加えて、藤原行成は和歌の才は無いと言われる
わりにイヴェントで詠まれた和歌の中からちゃんと秀歌のみをピックアップして『権記』に記録して
たりするのに(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-21 )、参加した作文会
で素晴しい詩が作られても、『権記』に書いていないところをみると、詩文に対する見識が無いか、
そもそも興味すら無い可能性が(^_^;) 例えば、倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成「権記」(中)』
(講談社学術文庫,2012)389頁から寛弘2年(1005年)3月29日条および同年4月1日条を引く(^_^;)
二十九日、丁丑。 道長第射儀・作文会
左府の許に参った。射儀が行なわれた。また、作文会が行なわれた。
一日、戊寅。 旬平座
午剋の頃、左府(藤原道長)の許から帰った。内裏に参った。右衛門督(藤原斉信)が、
仰せを承って、平座の上卿を勤めた。/早朝、雨が降った。
この作文会については、黒板伸夫も「[寛弘2年=1005年]三月二十七日、内裏で敦康親王対面の儀、
ならびに脩子内親王着裳の儀が行われ、内親王は三品に叙せられる。」(本書159頁)云々と叙述した
後で次のような指摘をしている(本書160頁)(^_^;)
・・・/さてこの日、男女一宮の外舅[藤原]伊周は昇殿を聴[ゆる]され、
帰京後はじめて公卿の座に着いた。彼は前月「大臣の下、大納言の上」と
席次が決められている。その後道長邸で弓の遊びと詩会が行われたが、
ここでの伊周の作は人々の間に「毎句感あり、満座涙を拭う」(『小右記』)
という感動をよび起した。行成も参会しているが「また作文あり」と記すのみ
である。・・・
「この日」とは(前頁に記された)「三月二十七日」、「道長邸」の「詩会」も同日と読めるけど、
伊周が「昇殿を聴され」たのは3月26日だし、「詩会」は29日だよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
それはさておき、藤原行成が詩文に「長じていた」のなら、参加した作文会で作られた優れた詩文を
『権記』に書き写したり一言あってもよさそうなのに、言及すら無く、あっさりした記述になってる
ということを、どう評価すべきか(^_^;) 「長じて」ない、興味ないの方が自然な気がするけど(^_^;)
なお、この藤原伊周の作った詩に、「満座は涙を拭った」「上下の者は涕泣しました。主人(道長)
感嘆しました。」などと『小右記』には記されているのに、その道長自身も『御堂関白記』で一言も
言及していないんだよね(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-28 )(^_^;)
「道長主導で盛んに開かれた」作文会も、道長の処世術・保身術・出世術だった可能性v( ̄∇ ̄)ニヤッ
高名な歌人が詠んだ歌に「多くは気に入らなかった」と文句を言うなど、道長は和歌に自信があった
みたい(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-10-13 )(^_^;) しかも、「多くは
気に入らなかった」から「私も、少々の和歌をここに入れた」として詠んだ歌は勅撰集入集だから、
道長の和歌の実力は凄い(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-11-15 )(^_^;)
鵜呑みにしますよ!
だって専門家ですもの(^^;
by そら (2021-03-31 21:05)
専門家というだけで5割増しぐらいありそうですよね(^_^;)
1957年に映画化された「雪國」は岸恵子が名演技の由(^^)
by middrinn (2021-03-31 21:33)
今の時代ならリモートワーク中に「作文会」に参加するような感じ
だろうな・・・。作文に関しては伊周の方が上だったと。
by tai-yama (2021-03-31 23:49)
付き合いのためにゴルフをやるというのは珍しくないですよね。
あまりに下手過ぎると先方が落胆するなんてことがあるので、(かといって、あまり上手になりすぎるのもアレですが)そう思われないぐらいには練習しないといけないかなとも思います(^^;
by ナベちはる (2021-04-01 01:18)
middrinnさんおはようございます。
病院の順番待ち、電車の中などで、本を読んでいる人を見かけたりしますが、良くみると、同じページばかり見ていて、ページをめくっていない・・・ というのも、ゴルフ好きだから、ゴルフをやっているとは限らないのと同じ次元なのでしょうか・・・?
因みに、ゴルフは将来の接待の為、必須の授業でした。
by ネオ・アッキー (2021-04-01 05:14)
行成より上かは判りませんが、伊周の詩文の才はなかなかのものらしいですね(^_^;)
tai-yama様がリモートワーク中に色々とお食べになっていらっしゃるのもそう^_^;
by middrinn (2021-04-01 05:58)
ナルホド!( ̄◇ ̄;) たしかに下手過ぎるのも上手すぎるのも、
ナベちはる様、困りますから、練習に励むわけですね(^_^;)
by middrinn (2021-04-01 06:01)
じっくり考え込みながら熟読せねばならなかった頁かも(^_^;)
ネオ・アッキー様はゴルフもかなりの腕前なんですね(〃'∇'〃)
by middrinn (2021-04-01 06:05)
まあ西暦1000年前後は、大陸文化を高揚させるという
政策も、朝廷内でそろそろ緩んだ時代だったのでしょう。
西暦1080年頃になると、白河天皇や大江匡房が、
「碁を打たない」と言って、藤原長者を揶揄する時代に
までなったようですね。ところで、livedoorブログに、
当方は下のurlで≪公開されないミラーサイト≫を、
SSブログの消滅に備えて作っていますが、本日livedoor
ブログのホストのファイル総体が崩れかけている
らしく、一覧表示の調子がおかしいようです。
by df233285 (2021-04-01 11:16)
続きで、urlを出すようにしますと
エイチティティピー://df233285.livedoor.blog/
で、↓ですが、最初はどんなに堅固な物でも、
やがては堕落し崩れてゆくものであるという、
これも一例でしょうかねぇ。
by 長さん(=df233285) (2021-04-01 11:22)
livedoorの貴ブログは前に御教示頂いた際にブックマーク済です(^o^)丿
全ての点で満足がいくブログというのはなかなか無いようですね(@_@;)
by middrinn (2021-04-01 17:22)
確かに処世術・保身術・出世術かも(>_<) 飲まない私が珍しく飲み屋へ行ったときも仕事(^_^;) 残業手当を請求したかったです(^_^)v
by yokomi (2021-04-03 11:10)
飲み屋での“仕事”をちゃんとしないと手当は出ないかと(^_^;)
by middrinn (2021-04-03 15:02)