210307読んだ本【バカチン】
読書の厄介なところは、頭が悪い執筆者&編集者による本もあることである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
知識や教養の欠如といった問題ではなく、辻褄の合わない記述だらけの本のことさねC= (-。- ) フゥー
論旨を追いながら読んでると矛盾する記述の連発に頭の中が混乱してしまうがな(ノ`m´)ノ ~┻┻
【読んだ本(バカチン)】
山本博文『大江戸御家相続 家を続けることはなぜ難しいか』(朝日新書,2016)
読了(^o^)丿 第一章は完全に山本博文『徳川将軍15代 264年の血脈と抗争』(小学館101新書,2011)
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-01-23 )と丸被りだったけど、本書も
教わることが多いから、ブックオフに美品が110円であったら買うかも〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
はじめに
序章 徳川家康はなぜ天下を取れたのか──相続問題が豊臣政権を崩壊させた
予期せず生まれた秀吉の実子/自害させられた関白秀次/豊臣政権の実権は
誰にあったか?/関ヶ原合戦に重大な影響を与えた秀次失脚/
第一章 徳川将軍十五代の血脈──徳川宗家の御家相続
1 家康の跡取り
徳川家康の生い立ち/嫡男信康自害の真相/殺害された築山殿の評判/
信康と秀康/跡取りとして育てられた秀忠/関ヶ原の戦いと秀康・秀忠/
2 家康嫡流の家督相続
長子相続の確立/家康の子ども達/御三家の成立/順調に相続した四代将軍家綱/
3 徳川宗家時代の終わり
現将軍の意思が決め手となった綱吉擁立/綱吉の相続に異を唱えた水戸光圀/
甲府家から宗家を継いだ家宣/幼年将軍家継の誕生/
4 紀州系将軍の誕生
徳川宗家の危機/天英院の意思の重さ/吉宗が八代将軍に決まった理由/
5 御三卿からの将軍たち
御三卿の成立と十代将軍家治の急死/早めに跡取りを決めた十一代将軍家斉/
養子に出た家斉の子の行方/夭折した子どもの多い十二代将軍家慶/
6 将軍継嗣問題と最後の将軍
未曽有の国難/南紀派と一橋派/大老井伊直弼の剛腕/安政の大獄は
なぜ起こったか?/徳川家茂と和宮の婚姻/最後の将軍、徳川慶喜/大政奉還/
第二章 将軍家存続のために創られた家──御三家・後三卿の御家相続
御三家とはなにか/御三家の特権/御三家は大名から避けられた/
1 尾張徳川家の御家相続
尾張家の成立事情/尾張家と徳川宗家の関係/子だくさんでも綱渡りだった相続/
梁川藩から本家を継いだ徳川宗春/直系の断絶と一橋・田安両家からの跡取り/
存続のために徳川慶勝が下した決断/
2 紀州徳川家の御家相続
紀州藩の成立/吉宗、宗家を継ぐ/本家血筋の断絶/連枝西条藩からの養子/
3 水戸徳川家の御家相続
水戸藩の成立/藩主になれなかった長男頼重/「水戸の黄門様」二代藩主水戸光圀/
跡を継げなかった嫡子と高松藩の成立/藩主光圀の苦悩/異例づくしの養子/
水戸家断絶の危機/藩内対立 斉昭の相続事情/幕末史に大きな影響を与えた斉昭/
斉昭死後の水戸藩/
4 徳川御三卿の御家相続
徳川宗家の後継ぎ候補/当主不在の明屋形──田安家の相続/御家再興から明治へ/
将軍家への執念──一橋家の御家相続/治済の血筋の終わり/実子相続ゼロの家──
清水家の御家相続/家斉の子の処遇先として/
第三章 幕府に翻弄された「家門」松平家──徳川一門の御家相続
1 越前家の御家相続
徳川忠直の改易/松平忠昌の越前入封/幼少で跡を継いだ松平光通/
光通の縁組みが招いた悲劇/貞享の半知と藩政再建/福井藩三十万石の成立/
越前家の家格再興/将軍家からの養子と松平慶永の登場/
2 越後騒動
越前家嫡流のその後/跡継ぎ問題/越後騒動勃発/禍根を残した幕府の判決/
第二次御家騒動/将軍綱吉の親裁で越後家取りつぶし/
3 越前家庶流の御家相続
松江松平家/前橋松平家/明石松平家/
4 その他の徳川家一門の御家相続
会津松平家/鶴田松平家/
第四章 御家騒動はなぜ起こったか──諸藩の御家相続事情
大名からの相続願いと仰せ付け/末期養子と十七歳の壁/
1 凡庸な二代目の暴発──福岡藩黒田家
黒田騒動の始まり/重臣はなぜ主君の謀叛を訴え出たか?/
「諫言」に耳を貸さなかった二代目の愚かさ/
2 一門から隠居を強要された伊達綱宗──仙台藩伊達家
不行儀を咎められた放蕩藩主/一門大名による強制隠居/
3 御家相続のための藩主すり替え──対馬藩宗家
若い藩主の死/すり替えはなぜ成功したのか?/
4 養子だから断行できた藩政改革──米沢藩上杉家
小大名から大大名へ養子に入った上杉鷹山/「伝国之辞」に込められた理想/
5 遊女と心中した弟と老中になった兄──大和高取藩[植村家]
藩主の重圧に負ける/苦節二十五年にして老中並に/
6 田安家からきた優秀な養子──白河藩松平家
将軍になりそこねた松平定信/定信の子孫の活躍/
7 家格を上げるための養子縁組──津山藩松平家
越前家嫡流の御家再興/家格回復の念願/藩主の血筋に家を返す/
8 御家騒動を招いた美貌の側室──薩摩藩島津家
藩主の座を譲ろうとしなかった島津斉興/斉彬の焦りとお由羅騒動/
9 思いがけない世子就任と忠誠心──彦根藩井伊家
先が見えない部屋住み生活/思いもよらず世子になった井伊直弼/
10 分かれて再び交わる数奇な血縁──鳥取藩池田家、岡山藩池田家
二つの池田家の成立/鳥取藩池田家の相続/岡山藩池田家の相続/
おわりに
参考文献・引用史料
「序章」は「・・・関ヶ原の合戦の西軍の敗北は、秀次失脚にその遠因があったと言うこともできる
のです。/・・・」(本書25頁)とあるように、「敗北」の「遠因」との指摘にはナルホドと(゚o゚;)
本書168頁の次の記述とか、言われてみれば、たしかに・・・と得心させられる指摘が多い(⌒~⌒)
・・・/御三家・御三卿は、確かに生まれた時こそ、徳川宗家を守る壁としての役割や、
宗家が後継ぎを失った時のスペアとしての役割を求められていました。しかし「徳川
宗家以外が将軍になれる」ことは、門閥の権勢争いや、次代の将軍位をめぐる陰謀劇を
生み、時代が下るに従って幕政への介入を許すことになりました。/また、彼らが
継嗣問題だけでなく、外交など幕府の重要事にも影響を及ぼしたことで、ただでさえ
弱っていた徳川の屋台骨を揺るがせたことは、歴史の皮肉と言えるかもしれません。/
本書75頁の「徳川家に島津家の血を入れることに消極的だったとも考えられますが、もともと徳川家
では、母の血筋をあまり重視していません。これは天皇家との大きな違いです。」という指摘には、
へぇ~!と思った(゚o゚;) また「・・・東京大学准教授金子拓氏らによる太田牛一の『信長記』の写本
の研究(『織田信長という歴史』)からも、興味深い事実が窺えます。」(本書33頁)として、
・・・/つまり、家康が天下をとった後の記述では削除されるのですが、
古い『信長記』には、[家康の嫡男だった]信康の自害について書かれて
いるのです。そしてその内容は、信康の行動に問題があったか、あるいは
「不慮に狂乱」して、家康から押し込められたというのです。/おそらく
この[嫡男信康自害]事件は、家康が、家臣の圧力に負けて信康に自害を
命じざるを得なかった、ということなのです。しかしこれは、家康の事蹟
としては汚点です。そのため、信長に強要されて信康を自害させた、という
ことになったのでしょう。/
とか(本書34頁)、〈ちなみに、秀康を養子に出した天正十八年の段階で、家康の男子は秀康、秀忠、
忠吉(天正八年生れ)、信吉(天正十一年生れ)の四人です。彼らの名前の「秀」および「吉」は、
秀吉の一字を拝領したものでした。〉(本書39頁)の忠吉と信吉については初耳だったな( ̄◇ ̄;)
書き写してて気付いたけどさ、「生まれた」と「生れ」、送り仮名も不統一だよね、本書は(@_@;)
他にも多くを学べたけど、本書の記述には誤り、しかも、頭が悪いとしか思えない類のが散見(+_+)
本書巻頭の「はじめに」の最初の頁(本書3頁)からミス(誤記)があり、がっかりである(´ヘ`;)
・・・/武家政権の時代に入っても、鎌倉幕府を創設した源氏は、頼朝の子で
二代将軍の頼家が祖父の北条時房によって廃され、暗殺されます。・・・
言うまでもないことだが、北条時政が正しく、「北条時房」は時政の子で、政子や義時の弟(-ω-、)
関ヶ原の合戦後に尾張国清須に42万石を与えられた家康の四男忠吉についての本書44頁の説明(゚ロ゚;)
・・・東海道と中山道の合流地点である尾張国は、上洛する時に必ず通過する要地であり、
秀忠の同母弟で最も信頼すべき一門である忠吉に与えられたのです。/・・・
本書109頁でも「・・・忠吉が治めることになった尾張は、かつては織田信長の本拠地でした。東海道
と中山道が合流するこの場所は、・・・」と記してるけど、そもそも中山道は尾張国を通らないし、
「東海道と中山道の合流地点」は近江国の草津ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!! wikiの「草津宿」も
「草津宿(くさつしゅく、くさつじゅく、くさつやど)は、近江国栗太郡にあった東海道五十三次の
52番目の宿場で、中山道が合流する。」(^^) 故に、上洛直後に信長は代官を置こうとしたとか(^^)
本書57頁に「すでに触れたように、綱豊[=後の六代将軍家宣]にも複雑な事情がありました。」と
あるが、その後に記された「複雑な事情」、何度読み返しても「すでに触れた」記述など無い(-"-)
・・・/「有徳院殿御実紀」には、吉宗が家康の曾孫で、尾張・水戸の当主に比べれば
血統が近いから[八代将軍に決まったの]だと書いていますが、[水戸の当主]綱條は
さらに近い家康の孫ですから、それが理由になったとも思えません。/・・・
と本書63頁にあるが、「綱條」は「家康の孫」に非ず「家康の曾孫」ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
綱條は家康の十一男頼房の孫で、頼房の長男頼重の嫡子だが、頼重の弟の水戸藩二代藩主光圀の養子
となって第三代藩主を継いだ複雑な経緯は本書の131~142頁に詳述されているし、本書141頁掲載の
「水戸徳川家①」という略系図を見れば綱條が頼房の孫で「家康の孫」ではないのは一目瞭然(-"-)
将軍継嗣問題の「南紀派と一橋派」という節の冒頭(本書83~84頁)には絶句したぞヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
/[紀州藩の]慶福[=後の十四代将軍家茂]を推すのは、譜代大名筆頭の彦根藩主
井伊直弼で、紀州藩もそれを望みました。血筋や年齢を考えると慶福の方が自然であり、
多くの幕臣や大名もそう考えていたはずです。彼らは「南紀派」と呼ばれます。/
しかし、[開国か攘夷かの]難局に対処するには、幼い慶福では問題がありました。
そのため浮上したのが、「英明」と評判の高い一橋慶喜だったのです。/・・・
本書を読んできて、「年齢を考えると慶福の方が自然」という件で、えぇっ!?と絶句して、直後の
「幼い慶福では問題が」という件で、はぁ~!?とフリーズ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!? ともに
同じ頁(本書84頁)で間に1行挟んでるだけなのに、本書の原稿を読んだ編集者が気付かないのは、
頭を使わずに読んでいるか、頭が悪いのか、どちらか(^_^;) 権威主義的な朝日新聞社は東大教授に
ココはおかしくないですか?とは言えなかったのかもしれないけどね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
同じように本書の執筆者&編集者が矛盾してる記述に気付かなかったケースとしては、本書111頁に
「三代将軍家光は、[家康の九男で尾張藩初代藩主]義直の嫡子である[尾張藩二代藩主]光友に、
長女千代姫(霊仙院)を縁組みさせました。」とし、本書112頁で「二代目の光友は、十一男五女を
もうけました。そのうち、千代姫との間の男子は、長男の綱誠、次男の善行の二人です。」と記して
おきながら、本書114頁は「・・・六代藩主となったのは、吉通の弟である通顕でした。通顕は綱誠
の十二男で、・・・継友と名乗るようになりました。/継友は、経緯こそ傍流から本家を継いだ形に
なりますが、血筋としては三代将軍家光の孫(家光の長女・千代姫の子)であり、・・・」( ̄◇ ̄;)
「家光の孫」は光友と千代姫の子である「長男の綱誠、次男の善行の二人」であって、その「綱誠の
十二男」である継友は「家光の孫」ではなく家光の曾孫になるはずヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
同様に読んでいて頭を抱えてしまったのは、本書124頁に「[家康の十男]頼宣以後の紀州藩では、
二代藩主光貞、三代藩主綱教と、順当に嫡子相続が続きました。また頼宣の二男である頼純は、紀州
藩の連枝となる伊予西条藩を立てます。」とあるのに、本書128~129頁に〈吉宗に続き、藩主が宗家
を継いで藩を出て行った紀州藩では、連枝の西条藩主であった松平頼久が本家を継ぎ、[将軍]家茂
から「茂」の字を賜って、十四代藩主茂承となりました。茂承の曽祖父は松平頼謙といい、西条藩の
六代藩主でしたが、同時に紀州藩八代藩主重倫の弟でもありました。つまり、頼宣の三男、頼直の
血筋です。〉とあり、この「頼宣の三男、頼直」とはどこのどいつだよオリャ!!(ノ`△´)ノ ┫:・'∵:.
時間を浪費(-ω-、)ヾ( ̄o ̄;)閑な時に「また、つまらぬ物を読んでしまったorz」に書くべきかと!
知識や教養の欠如といった問題ではなく、辻褄の合わない記述だらけの本のことさねC= (-。- ) フゥー
論旨を追いながら読んでると矛盾する記述の連発に頭の中が混乱してしまうがな(ノ`m´)ノ ~┻┻
【読んだ本(バカチン)】
山本博文『大江戸御家相続 家を続けることはなぜ難しいか』(朝日新書,2016)
読了(^o^)丿 第一章は完全に山本博文『徳川将軍15代 264年の血脈と抗争』(小学館101新書,2011)
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-01-23 )と丸被りだったけど、本書も
教わることが多いから、ブックオフに美品が110円であったら買うかも〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
はじめに
序章 徳川家康はなぜ天下を取れたのか──相続問題が豊臣政権を崩壊させた
予期せず生まれた秀吉の実子/自害させられた関白秀次/豊臣政権の実権は
誰にあったか?/関ヶ原合戦に重大な影響を与えた秀次失脚/
第一章 徳川将軍十五代の血脈──徳川宗家の御家相続
1 家康の跡取り
徳川家康の生い立ち/嫡男信康自害の真相/殺害された築山殿の評判/
信康と秀康/跡取りとして育てられた秀忠/関ヶ原の戦いと秀康・秀忠/
2 家康嫡流の家督相続
長子相続の確立/家康の子ども達/御三家の成立/順調に相続した四代将軍家綱/
3 徳川宗家時代の終わり
現将軍の意思が決め手となった綱吉擁立/綱吉の相続に異を唱えた水戸光圀/
甲府家から宗家を継いだ家宣/幼年将軍家継の誕生/
4 紀州系将軍の誕生
徳川宗家の危機/天英院の意思の重さ/吉宗が八代将軍に決まった理由/
5 御三卿からの将軍たち
御三卿の成立と十代将軍家治の急死/早めに跡取りを決めた十一代将軍家斉/
養子に出た家斉の子の行方/夭折した子どもの多い十二代将軍家慶/
6 将軍継嗣問題と最後の将軍
未曽有の国難/南紀派と一橋派/大老井伊直弼の剛腕/安政の大獄は
なぜ起こったか?/徳川家茂と和宮の婚姻/最後の将軍、徳川慶喜/大政奉還/
第二章 将軍家存続のために創られた家──御三家・後三卿の御家相続
御三家とはなにか/御三家の特権/御三家は大名から避けられた/
1 尾張徳川家の御家相続
尾張家の成立事情/尾張家と徳川宗家の関係/子だくさんでも綱渡りだった相続/
梁川藩から本家を継いだ徳川宗春/直系の断絶と一橋・田安両家からの跡取り/
存続のために徳川慶勝が下した決断/
2 紀州徳川家の御家相続
紀州藩の成立/吉宗、宗家を継ぐ/本家血筋の断絶/連枝西条藩からの養子/
3 水戸徳川家の御家相続
水戸藩の成立/藩主になれなかった長男頼重/「水戸の黄門様」二代藩主水戸光圀/
跡を継げなかった嫡子と高松藩の成立/藩主光圀の苦悩/異例づくしの養子/
水戸家断絶の危機/藩内対立 斉昭の相続事情/幕末史に大きな影響を与えた斉昭/
斉昭死後の水戸藩/
4 徳川御三卿の御家相続
徳川宗家の後継ぎ候補/当主不在の明屋形──田安家の相続/御家再興から明治へ/
将軍家への執念──一橋家の御家相続/治済の血筋の終わり/実子相続ゼロの家──
清水家の御家相続/家斉の子の処遇先として/
第三章 幕府に翻弄された「家門」松平家──徳川一門の御家相続
1 越前家の御家相続
徳川忠直の改易/松平忠昌の越前入封/幼少で跡を継いだ松平光通/
光通の縁組みが招いた悲劇/貞享の半知と藩政再建/福井藩三十万石の成立/
越前家の家格再興/将軍家からの養子と松平慶永の登場/
2 越後騒動
越前家嫡流のその後/跡継ぎ問題/越後騒動勃発/禍根を残した幕府の判決/
第二次御家騒動/将軍綱吉の親裁で越後家取りつぶし/
3 越前家庶流の御家相続
松江松平家/前橋松平家/明石松平家/
4 その他の徳川家一門の御家相続
会津松平家/鶴田松平家/
第四章 御家騒動はなぜ起こったか──諸藩の御家相続事情
大名からの相続願いと仰せ付け/末期養子と十七歳の壁/
1 凡庸な二代目の暴発──福岡藩黒田家
黒田騒動の始まり/重臣はなぜ主君の謀叛を訴え出たか?/
「諫言」に耳を貸さなかった二代目の愚かさ/
2 一門から隠居を強要された伊達綱宗──仙台藩伊達家
不行儀を咎められた放蕩藩主/一門大名による強制隠居/
3 御家相続のための藩主すり替え──対馬藩宗家
若い藩主の死/すり替えはなぜ成功したのか?/
4 養子だから断行できた藩政改革──米沢藩上杉家
小大名から大大名へ養子に入った上杉鷹山/「伝国之辞」に込められた理想/
5 遊女と心中した弟と老中になった兄──大和高取藩[植村家]
藩主の重圧に負ける/苦節二十五年にして老中並に/
6 田安家からきた優秀な養子──白河藩松平家
将軍になりそこねた松平定信/定信の子孫の活躍/
7 家格を上げるための養子縁組──津山藩松平家
越前家嫡流の御家再興/家格回復の念願/藩主の血筋に家を返す/
8 御家騒動を招いた美貌の側室──薩摩藩島津家
藩主の座を譲ろうとしなかった島津斉興/斉彬の焦りとお由羅騒動/
9 思いがけない世子就任と忠誠心──彦根藩井伊家
先が見えない部屋住み生活/思いもよらず世子になった井伊直弼/
10 分かれて再び交わる数奇な血縁──鳥取藩池田家、岡山藩池田家
二つの池田家の成立/鳥取藩池田家の相続/岡山藩池田家の相続/
おわりに
参考文献・引用史料
「序章」は「・・・関ヶ原の合戦の西軍の敗北は、秀次失脚にその遠因があったと言うこともできる
のです。/・・・」(本書25頁)とあるように、「敗北」の「遠因」との指摘にはナルホドと(゚o゚;)
本書168頁の次の記述とか、言われてみれば、たしかに・・・と得心させられる指摘が多い(⌒~⌒)
・・・/御三家・御三卿は、確かに生まれた時こそ、徳川宗家を守る壁としての役割や、
宗家が後継ぎを失った時のスペアとしての役割を求められていました。しかし「徳川
宗家以外が将軍になれる」ことは、門閥の権勢争いや、次代の将軍位をめぐる陰謀劇を
生み、時代が下るに従って幕政への介入を許すことになりました。/また、彼らが
継嗣問題だけでなく、外交など幕府の重要事にも影響を及ぼしたことで、ただでさえ
弱っていた徳川の屋台骨を揺るがせたことは、歴史の皮肉と言えるかもしれません。/
本書75頁の「徳川家に島津家の血を入れることに消極的だったとも考えられますが、もともと徳川家
では、母の血筋をあまり重視していません。これは天皇家との大きな違いです。」という指摘には、
へぇ~!と思った(゚o゚;) また「・・・東京大学准教授金子拓氏らによる太田牛一の『信長記』の写本
の研究(『織田信長という歴史』)からも、興味深い事実が窺えます。」(本書33頁)として、
・・・/つまり、家康が天下をとった後の記述では削除されるのですが、
古い『信長記』には、[家康の嫡男だった]信康の自害について書かれて
いるのです。そしてその内容は、信康の行動に問題があったか、あるいは
「不慮に狂乱」して、家康から押し込められたというのです。/おそらく
この[嫡男信康自害]事件は、家康が、家臣の圧力に負けて信康に自害を
命じざるを得なかった、ということなのです。しかしこれは、家康の事蹟
としては汚点です。そのため、信長に強要されて信康を自害させた、という
ことになったのでしょう。/
とか(本書34頁)、〈ちなみに、秀康を養子に出した天正十八年の段階で、家康の男子は秀康、秀忠、
忠吉(天正八年生れ)、信吉(天正十一年生れ)の四人です。彼らの名前の「秀」および「吉」は、
秀吉の一字を拝領したものでした。〉(本書39頁)の忠吉と信吉については初耳だったな( ̄◇ ̄;)
書き写してて気付いたけどさ、「生まれた」と「生れ」、送り仮名も不統一だよね、本書は(@_@;)
他にも多くを学べたけど、本書の記述には誤り、しかも、頭が悪いとしか思えない類のが散見(+_+)
本書巻頭の「はじめに」の最初の頁(本書3頁)からミス(誤記)があり、がっかりである(´ヘ`;)
・・・/武家政権の時代に入っても、鎌倉幕府を創設した源氏は、頼朝の子で
二代将軍の頼家が祖父の北条時房によって廃され、暗殺されます。・・・
言うまでもないことだが、北条時政が正しく、「北条時房」は時政の子で、政子や義時の弟(-ω-、)
関ヶ原の合戦後に尾張国清須に42万石を与えられた家康の四男忠吉についての本書44頁の説明(゚ロ゚;)
・・・東海道と中山道の合流地点である尾張国は、上洛する時に必ず通過する要地であり、
秀忠の同母弟で最も信頼すべき一門である忠吉に与えられたのです。/・・・
本書109頁でも「・・・忠吉が治めることになった尾張は、かつては織田信長の本拠地でした。東海道
と中山道が合流するこの場所は、・・・」と記してるけど、そもそも中山道は尾張国を通らないし、
「東海道と中山道の合流地点」は近江国の草津ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!! wikiの「草津宿」も
「草津宿(くさつしゅく、くさつじゅく、くさつやど)は、近江国栗太郡にあった東海道五十三次の
52番目の宿場で、中山道が合流する。」(^^) 故に、上洛直後に信長は代官を置こうとしたとか(^^)
本書57頁に「すでに触れたように、綱豊[=後の六代将軍家宣]にも複雑な事情がありました。」と
あるが、その後に記された「複雑な事情」、何度読み返しても「すでに触れた」記述など無い(-"-)
・・・/「有徳院殿御実紀」には、吉宗が家康の曾孫で、尾張・水戸の当主に比べれば
血統が近いから[八代将軍に決まったの]だと書いていますが、[水戸の当主]綱條は
さらに近い家康の孫ですから、それが理由になったとも思えません。/・・・
と本書63頁にあるが、「綱條」は「家康の孫」に非ず「家康の曾孫」ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
綱條は家康の十一男頼房の孫で、頼房の長男頼重の嫡子だが、頼重の弟の水戸藩二代藩主光圀の養子
となって第三代藩主を継いだ複雑な経緯は本書の131~142頁に詳述されているし、本書141頁掲載の
「水戸徳川家①」という略系図を見れば綱條が頼房の孫で「家康の孫」ではないのは一目瞭然(-"-)
将軍継嗣問題の「南紀派と一橋派」という節の冒頭(本書83~84頁)には絶句したぞヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
/[紀州藩の]慶福[=後の十四代将軍家茂]を推すのは、譜代大名筆頭の彦根藩主
井伊直弼で、紀州藩もそれを望みました。血筋や年齢を考えると慶福の方が自然であり、
多くの幕臣や大名もそう考えていたはずです。彼らは「南紀派」と呼ばれます。/
しかし、[開国か攘夷かの]難局に対処するには、幼い慶福では問題がありました。
そのため浮上したのが、「英明」と評判の高い一橋慶喜だったのです。/・・・
本書を読んできて、「年齢を考えると慶福の方が自然」という件で、えぇっ!?と絶句して、直後の
「幼い慶福では問題が」という件で、はぁ~!?とフリーズ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!? ともに
同じ頁(本書84頁)で間に1行挟んでるだけなのに、本書の原稿を読んだ編集者が気付かないのは、
頭を使わずに読んでいるか、頭が悪いのか、どちらか(^_^;) 権威主義的な朝日新聞社は東大教授に
ココはおかしくないですか?とは言えなかったのかもしれないけどね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
同じように本書の執筆者&編集者が矛盾してる記述に気付かなかったケースとしては、本書111頁に
「三代将軍家光は、[家康の九男で尾張藩初代藩主]義直の嫡子である[尾張藩二代藩主]光友に、
長女千代姫(霊仙院)を縁組みさせました。」とし、本書112頁で「二代目の光友は、十一男五女を
もうけました。そのうち、千代姫との間の男子は、長男の綱誠、次男の善行の二人です。」と記して
おきながら、本書114頁は「・・・六代藩主となったのは、吉通の弟である通顕でした。通顕は綱誠
の十二男で、・・・継友と名乗るようになりました。/継友は、経緯こそ傍流から本家を継いだ形に
なりますが、血筋としては三代将軍家光の孫(家光の長女・千代姫の子)であり、・・・」( ̄◇ ̄;)
「家光の孫」は光友と千代姫の子である「長男の綱誠、次男の善行の二人」であって、その「綱誠の
十二男」である継友は「家光の孫」ではなく家光の曾孫になるはずヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
同様に読んでいて頭を抱えてしまったのは、本書124頁に「[家康の十男]頼宣以後の紀州藩では、
二代藩主光貞、三代藩主綱教と、順当に嫡子相続が続きました。また頼宣の二男である頼純は、紀州
藩の連枝となる伊予西条藩を立てます。」とあるのに、本書128~129頁に〈吉宗に続き、藩主が宗家
を継いで藩を出て行った紀州藩では、連枝の西条藩主であった松平頼久が本家を継ぎ、[将軍]家茂
から「茂」の字を賜って、十四代藩主茂承となりました。茂承の曽祖父は松平頼謙といい、西条藩の
六代藩主でしたが、同時に紀州藩八代藩主重倫の弟でもありました。つまり、頼宣の三男、頼直の
血筋です。〉とあり、この「頼宣の三男、頼直」とはどこのどいつだよオリャ!!(ノ`△´)ノ ┫:・'∵:.
時間を浪費(-ω-、)ヾ( ̄o ̄;)閑な時に「また、つまらぬ物を読んでしまったorz」に書くべきかと!
タグ:歴史
名古屋で合流するのは国道19号線ですね。中山道=国道19号を
イメージする人も多いので。12歳の将軍はすごいけど、国家元首
の年齢としては、今より江戸時代方がましかも。
by tai-yama (2021-03-07 23:27)
執筆者と編集者がどう組み合わさるかで「その本の良し悪し」が決まるので、怖いなぁと思います(^^;
by ナベちはる (2021-03-08 01:48)
江戸時代の問題なのに、国道19号線のイメージで、
tai-yama様、論じられてたら困りますね(^_^;)
by middrinn (2021-03-08 06:42)
編集者は最初の読者と言われますから、
ナベちはる様、的確な感想を執筆者に
伝えないと、つまらない本に(^_^;)
by middrinn (2021-03-08 06:44)
家を続けることって難しいですよね
男の子だけが生まれるわけではないし、子供が出来ない事もあるから
それがあれだけ続いた徳川家はすごいわぁ!
by そら (2021-03-08 06:47)
ですよねぇ(^_^;) にしても、この時代、謎なのは、
生まれても、すぐ亡くなっちゃうことです(@_@;)
by middrinn (2021-03-08 07:05)
私は歴史に弱いが執筆者や編集者によりそんないい加減なものがあるんですか。出版社を見て選ぶのがいいんですか。
by enosan (2021-03-08 09:45)
一般に知られてない出版社でも編集者の原稿チェックが行き届いていて、
このようなミスの(少)ない本もあるので一概には言えませんね(´ヘ`;)
今回列挙したミスの多くは、論旨を追いながら読んでれば、前に出てきた
記述と違うぞと誰でも気付くはずですし、やはり読み方が大事かと(^^)
ハクモクレンの御写真、背景とのコントラストが上手いですね(〃'∇'〃)
by middrinn (2021-03-08 10:17)