210304読んだ本【オールバカチン】
読書の厄介なところは、既に春が来ていたことに気付かないことである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
大量にあった4月期限の貼るカイロも昨日使い切って(お腹が焦げたが)、ヒートテックも卒業(^_^;)
【読んだ本(オールバカチン)】
尾崎雅嘉(著)古川久(校訂)『百人一首一夕話(上)』(岩波文庫,1972)所蔵本
藤本一恵(全訳注)『後拾遺和歌集(三)』(講談社学術文庫,1983)所蔵本
藤本一恵『後拾遺和歌集全釈 下巻』(風間書房,1993)所蔵本
峯村文人(校注・訳)『新編日本古典文学全集 43 新古今和歌集』(小学館,1995)所蔵本
久保田淳『新古今和歌集全注釈 六』(角川学芸出版,2012)所蔵本
高階貴子(儀同三司母・高内侍)は関白藤原道隆の妻で、一条天皇の皇后定子や伊周・隆家の母(^^)
倉本一宏(日本歴史学会編集)『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書,2003新装版)から引く(⌒~⌒)
・・・/この[正暦2年(991年)の]間にも道隆一族の昇進は続き、七月二十二日には
高階成忠が「皇后の外祖為[た]るに依り」従二位に叙せられ(『扶桑略記』)、
九月七日には弟の道兼が「朕の御舅[おじ]なり。朝恩を蒙るべき人なるに依りて」
内大臣に任じられた(『権記』)。前者の道隆の姻戚に対する異例の叙位は、
妻の高階貴子が前年に正三位に叙せられていることと併せ、公卿社会に受け入れられ
なかったであろうし、後者の任内大臣は道兼が道隆の後継者候補としての地位を
手に入れたことを示すものである。・・・
なのに、『百人一首一夕話』の「儀同三司母」が「・・・さてこの儀同三司母と申すは、従三位高階
真人成忠の女にて従三位貴子と申す。・・・」としてるのは論外としても、藤本一恵・学術文庫版が
高内侍を「・・・従二位式部卿高階成忠の女。・・・后母ということで従三位となる。・・・」とし、
藤本一恵・全釈も「・・・従二位式部卿高階成忠の女。・・・后母の故を以って従三位に叙された。
・・・」とし、峯村文人・新全集の「作者略伝」も儀同三司母を「長徳二年(九九六)没、従三位。
・・・」する上に、久保田淳・全注釈の「作者一覧・作者別索引」までもが高階貴子を「・・・円融
天皇の代の内侍で、高内侍と呼ばれ、従三位に叙された。・・・」としてる( ̄◇ ̄;) 斯くも揃って
高階貴子を「従三位」としているのは、単なる誤植ではなく、典拠とした共通の文献が何かあって、
ソレが間違ってたっぽいけど、どちらにせよ確認を怠るんじゃねーよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
萩谷朴(校注)『新潮日本古典集成 枕草子 下』(新潮社,1977→2012:14刷)巻末にある「附録」の
「枕草子現存人名一覧」の「高階貴子」の項には次の一文( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
・・・正暦元年十月二十六日従五位上より正三位に進む(権)。・・・
この「(権)」とは、藤原行成の日記『権記』を伝記考証の典拠としたという意なのだが、倉本一宏
(全現代語訳)『藤原行成「権記」(上)』(講談社学術文庫,2011)は正暦2年(991年)9月7日条
から始まってて、同書には「正暦元年十月二十六日」条が無いじゃん∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?
と思ったら、『権記』長保2年(1000年)4月7日条に「正暦元年十月二十六日」のことも出てた(^^)v
当該件を同書338~339頁から引く(⌒~⌒)
七日、甲寅。 中宮内裏参入の際の加階/天文密奏/豊楽院招俊堂、焼亡/
彰子、内裏参入/藤原道綱・源成信を賞す(『冊命皇后式』
『立后雑事抄』にもあり)
辰剋、左府[藤原道長]から書状を賜わって云ったことには、「中宮が内裏に御入
される際、先例が有るならば、行事たちに賞を授けよう。事情を奏上させようと
思う。しばらく伺候するように。(源)済政朝臣が伺候していれば、すぐに来る
ように伝えよ」と。済政朝臣は、今朝、退出した。そこでそのことを申させた。
午剋、阿波権守済政朝臣が来た。左丞相(道長)が奏上される趣旨を伝えた。
すぐに皇后が初めて内裏に御入される日に、賞が行なわれた先例の文を託した
〈・・・永祚二年十月五日、皇后(藤原定子)が立った。同月十五日、藤原朝臣
伊周が正四位下に叙された。后の兄である。祐子女王が従五位下に叙された。
乳母である。同二十二日、摂政(道隆)の邸から内裏に遷御した。藤原朝臣守仁が
正五位下に叙された。高階光子が従五位下に叙された。乳母である。同二十六日、
従五位上高階朝臣貴子が正三位に叙された。后の母である。〉。この勘文は、
天皇が御物忌であったので、奏覧することはできなかった。ただ詞で奏上した。
天皇がおっしゃって云ったことには、「后に立った後、初めて内裏に御入する日に
賞を行なうことは先例が有る。これを行なうについては、何事が有るであろうか。
その人を指名して申すよう、仰せ遣わすように」ということだ。すぐにこのことを
伝えた。・・・
御覧の通り、「永祚二年[←11月7日に正暦に改元]十月・・・二十六日、従五位上高階朝臣貴子が
正三位に叙された。」とあるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*) 続けて同書で『権記』を読んでいたところ、
長保2年(1000年)8月20条に興味深い件(同書414頁)があった(^_^;)
二十日、甲子。 世尊寺に赴き観修に拝謁/阿闍梨補任を奏上/立后奉告使・
止雨奉幣使定/大宰府解文/調長助の栄爵文/信濃勅旨駒牽/
藤原尊子を女御とする/女御藤原元子を従三位に叙す/
藤原道兼女、着袴/藤原繁子、行成に女装束を送る。行成、
及び家人、これを拒否
・・・また、勅して云われたことには、「女御(藤原)元子を従三位に叙す事を、
左大臣[藤原道長]に伝えよ」と〈右大臣[藤原顕光]の息女である。切々と
申請されていたのである。本位は正五位下である。超越[ちょうおつ]が
度を過ぎていることは非常である。また非常の事である。〉。/・・・
父の右大臣藤原顕光が「切々と」求めるので、一条天皇の女御元子を「正五位下」から「従三位」に
叙したことを、藤原行成は「超越が度を過ぎている」として「非常」という語を繰り返してる(^_^;)
元子の「正五位下」→「従三位」より高階貴子の「従五位上」→「正三位」の方がランクアップ度は
高いので高階貴子の「超越」はヨリ「度を過ぎている」とされ、「姻戚に対する異例の叙位は・・・
公卿社会に受け入れられなかったであろう」との倉本一宏の評は、然もありなん、という感じ(^_^;)
大量にあった4月期限の貼るカイロも昨日使い切って(お腹が焦げたが)、ヒートテックも卒業(^_^;)
【読んだ本(オールバカチン)】
尾崎雅嘉(著)古川久(校訂)『百人一首一夕話(上)』(岩波文庫,1972)所蔵本
藤本一恵(全訳注)『後拾遺和歌集(三)』(講談社学術文庫,1983)所蔵本
藤本一恵『後拾遺和歌集全釈 下巻』(風間書房,1993)所蔵本
峯村文人(校注・訳)『新編日本古典文学全集 43 新古今和歌集』(小学館,1995)所蔵本
久保田淳『新古今和歌集全注釈 六』(角川学芸出版,2012)所蔵本
高階貴子(儀同三司母・高内侍)は関白藤原道隆の妻で、一条天皇の皇后定子や伊周・隆家の母(^^)
倉本一宏(日本歴史学会編集)『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書,2003新装版)から引く(⌒~⌒)
・・・/この[正暦2年(991年)の]間にも道隆一族の昇進は続き、七月二十二日には
高階成忠が「皇后の外祖為[た]るに依り」従二位に叙せられ(『扶桑略記』)、
九月七日には弟の道兼が「朕の御舅[おじ]なり。朝恩を蒙るべき人なるに依りて」
内大臣に任じられた(『権記』)。前者の道隆の姻戚に対する異例の叙位は、
妻の高階貴子が前年に正三位に叙せられていることと併せ、公卿社会に受け入れられ
なかったであろうし、後者の任内大臣は道兼が道隆の後継者候補としての地位を
手に入れたことを示すものである。・・・
なのに、『百人一首一夕話』の「儀同三司母」が「・・・さてこの儀同三司母と申すは、従三位高階
真人成忠の女にて従三位貴子と申す。・・・」としてるのは論外としても、藤本一恵・学術文庫版が
高内侍を「・・・従二位式部卿高階成忠の女。・・・后母ということで従三位となる。・・・」とし、
藤本一恵・全釈も「・・・従二位式部卿高階成忠の女。・・・后母の故を以って従三位に叙された。
・・・」とし、峯村文人・新全集の「作者略伝」も儀同三司母を「長徳二年(九九六)没、従三位。
・・・」する上に、久保田淳・全注釈の「作者一覧・作者別索引」までもが高階貴子を「・・・円融
天皇の代の内侍で、高内侍と呼ばれ、従三位に叙された。・・・」としてる( ̄◇ ̄;) 斯くも揃って
高階貴子を「従三位」としているのは、単なる誤植ではなく、典拠とした共通の文献が何かあって、
ソレが間違ってたっぽいけど、どちらにせよ確認を怠るんじゃねーよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
萩谷朴(校注)『新潮日本古典集成 枕草子 下』(新潮社,1977→2012:14刷)巻末にある「附録」の
「枕草子現存人名一覧」の「高階貴子」の項には次の一文( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
・・・正暦元年十月二十六日従五位上より正三位に進む(権)。・・・
この「(権)」とは、藤原行成の日記『権記』を伝記考証の典拠としたという意なのだが、倉本一宏
(全現代語訳)『藤原行成「権記」(上)』(講談社学術文庫,2011)は正暦2年(991年)9月7日条
から始まってて、同書には「正暦元年十月二十六日」条が無いじゃん∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?
と思ったら、『権記』長保2年(1000年)4月7日条に「正暦元年十月二十六日」のことも出てた(^^)v
当該件を同書338~339頁から引く(⌒~⌒)
七日、甲寅。 中宮内裏参入の際の加階/天文密奏/豊楽院招俊堂、焼亡/
彰子、内裏参入/藤原道綱・源成信を賞す(『冊命皇后式』
『立后雑事抄』にもあり)
辰剋、左府[藤原道長]から書状を賜わって云ったことには、「中宮が内裏に御入
される際、先例が有るならば、行事たちに賞を授けよう。事情を奏上させようと
思う。しばらく伺候するように。(源)済政朝臣が伺候していれば、すぐに来る
ように伝えよ」と。済政朝臣は、今朝、退出した。そこでそのことを申させた。
午剋、阿波権守済政朝臣が来た。左丞相(道長)が奏上される趣旨を伝えた。
すぐに皇后が初めて内裏に御入される日に、賞が行なわれた先例の文を託した
〈・・・永祚二年十月五日、皇后(藤原定子)が立った。同月十五日、藤原朝臣
伊周が正四位下に叙された。后の兄である。祐子女王が従五位下に叙された。
乳母である。同二十二日、摂政(道隆)の邸から内裏に遷御した。藤原朝臣守仁が
正五位下に叙された。高階光子が従五位下に叙された。乳母である。同二十六日、
従五位上高階朝臣貴子が正三位に叙された。后の母である。〉。この勘文は、
天皇が御物忌であったので、奏覧することはできなかった。ただ詞で奏上した。
天皇がおっしゃって云ったことには、「后に立った後、初めて内裏に御入する日に
賞を行なうことは先例が有る。これを行なうについては、何事が有るであろうか。
その人を指名して申すよう、仰せ遣わすように」ということだ。すぐにこのことを
伝えた。・・・
御覧の通り、「永祚二年[←11月7日に正暦に改元]十月・・・二十六日、従五位上高階朝臣貴子が
正三位に叙された。」とあるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*) 続けて同書で『権記』を読んでいたところ、
長保2年(1000年)8月20条に興味深い件(同書414頁)があった(^_^;)
二十日、甲子。 世尊寺に赴き観修に拝謁/阿闍梨補任を奏上/立后奉告使・
止雨奉幣使定/大宰府解文/調長助の栄爵文/信濃勅旨駒牽/
藤原尊子を女御とする/女御藤原元子を従三位に叙す/
藤原道兼女、着袴/藤原繁子、行成に女装束を送る。行成、
及び家人、これを拒否
・・・また、勅して云われたことには、「女御(藤原)元子を従三位に叙す事を、
左大臣[藤原道長]に伝えよ」と〈右大臣[藤原顕光]の息女である。切々と
申請されていたのである。本位は正五位下である。超越[ちょうおつ]が
度を過ぎていることは非常である。また非常の事である。〉。/・・・
父の右大臣藤原顕光が「切々と」求めるので、一条天皇の女御元子を「正五位下」から「従三位」に
叙したことを、藤原行成は「超越が度を過ぎている」として「非常」という語を繰り返してる(^_^;)
元子の「正五位下」→「従三位」より高階貴子の「従五位上」→「正三位」の方がランクアップ度は
高いので高階貴子の「超越」はヨリ「度を過ぎている」とされ、「姻戚に対する異例の叙位は・・・
公卿社会に受け入れられなかったであろう」との倉本一宏の評は、然もありなん、という感じ(^_^;)
タグ:歴史
ほぼプータローなバンドマンが上場会社の統括部長になるぐらい
の出世と同じ構図だったり(笑)。
by tai-yama (2021-03-04 23:26)
4月期限のカイロ、全部使いきれましたか!
無駄にならずに済んで一安心ですね☆彡
by ナベちはる (2021-03-05 01:08)
有力政治家の親族と違って、
tai-yama様、姻戚(^_^;)
by middrinn (2021-03-05 06:33)
毎日2つずつ使ったので、何とか期限内に、
ナベちはる様、使い切りましたよ(^_^;)
by middrinn (2021-03-05 06:35)
そう言えば今年はヒートテック着なかったなぁ
暖冬だったのでしょうか?
by そら (2021-03-05 06:44)
去年より寒いと当初は感じましたけどね、
シモヤケにもなりませんでした(^_^;)
by middrinn (2021-03-05 06:48)